を窓辺に飾るそれとは全く違つたものであります。
「趣味」が「道楽」となる場合、その極端はこれまた、何をするにしても、それが「道楽」と呼び得る限り、単なる「趣味」では事足りず、心身ともにこれに投じて悔いない状態です。「道楽」と云へば人聞きが悪いやうでもあり、また自ら卑下したことにもなるといふ微妙な語感をもつた言葉で、しかも、一脈、それに徹してゐる矜りのやうなものが言外に匂ふといふのは、その「道《だう》」の一字が、どことなく神聖なものを感じさせるために、自ら慰めるところがあるからだと思はれます。事実、釣道楽、食道楽、勝負道楽などと、この種の道楽は、世界のどこにでも通用しさうですが、日本人の場合は、屡々一種の哲学めいたものを用意して、よかれ悪しかれ、人を煙に巻くといふやり方です。

[#7字下げ]九[#「九」は中見出し]

 風習の上に現れた日本文化の特色の一つとして、私は、「贈物」、近頃の言ひ方をすれば「贈答」について考へてみたいと思ひます。
 徒然草に、「よき友三あり、一には、物くるる友」といふ文句があります。たしかに、日本人ぐらゐ物をやつたり貰つたりすることの好きな国民はないやうです。この点、昔も今も変りはありませんが、こゝで注意すべきことは、日本人のこの風習は、昔と今と、非常にその精神が変つて来てゐるやうです。
 なかにはむろん、古人の心を心として、やるにも貰ふにも、昔の仕来りを守つてゐるゆかしい人々もありますが、多くは形式的な「お義理」としてか、または、打算的な「附け届け」としてでありまして、真に同じものを分け合ふ気持などは、めつたに見られないといふ有様であります。
 しかし、それでも、日本人はまだ、義理でも打算でもない、たゞ単に気前を見せるとか、相手の驚き喜ぶ顔を見たいとかいふ、単純でかつ不思議な心理から、無暗に相手かまはず物をやりたがり、また、貰ふ方でもわりに平気でそれを受けとるといふ風が、そんなに珍しくはないのです。
 外国人にはよほどこれが不可解とみえて、日本人の甘さとさへ評してゐる向もあるくらゐです。甘くみられることは必ずしも恥ではありません。しかし、かういふ傾向は、やはり、精神と形式との遊離でありまして、美しかるべき行為が、その美しさを消してゐる一例であります。
 日本人が、贈物として、その物に托する心情は、歌にも詩にもしたいほどの、深い意味を籠めて
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