そのものを指しませんけれども、「文の道」に対して、戦時の用意を意味するものと解せられます。従つて、文武両道は、武士の最高の教養とされるのみならず、武士に非ざるものも、一朝事ある時の覚悟として、「武の道」は少くとも胆力としてこれを練るのが真の日本人でありました。
「書道」「茶道」「華道」、すべて「芸道」のうちにはひりますが、これら「芸道」は、男女ともに、その余裕あるものは、「嗜み」としていくぶんづつは身につけるのが普通でありました。それぞれ専門の師匠があつて、深くその道に入るに従つて、「免許」といふものが授けられます。
いづれも、多くの流派を生みましたが、今日ではやゝその区別が混沌としてゐます。
元来、これらの芸道は、日常生活の儀式化、娯楽化されたものでありますが、特に茶道華道は、有閑階級の社交に利用せられる傾きが多く、その「道」たるの精神から遠ざかつてゐるやうに思はれます。
しかし、その発展の歴史を遡れば、「道」としての神髄を発揮し、日本人の生活の豊かな象徴として、日常起居の規範となつたことをも見逃し得ないのであります。
「茶道」のいはゆる「和敬静寂」の精神の如きは、日本的な個人生活の理想を暗示したものでありませう。
それはとにかくとして、これらの「芸道」の心は、日本人の生活面を通じて、様々な影響と支配との跡を見せてゐるのであります。
一般に「趣味」と云はれる、本職本業以外の、例へば、読書であるとか、音楽であるとか、手細工であるとか、更に、今日では体育の部類に入れられる登山、ハイキング、運動と娯楽の中間に位するゴルフ、玉突、さては、碁将棋、マーヂヤンの室内競技に至るまでの「余暇利用法」は、概ね、誰でもそのうちの一つや二つは、深い浅いの程度はあつてもこれをもつてゐないものはありますまい。
その「趣味」が少し昂じて来て、技術的にも腕をあげようといふ野心が生じて来ると、それはもう趣味の領域から脱け出すことになり、また、同じ趣味でも、技術より精神を尊ぶといふやうな行き方もあつて、そこでは、下手の横好きが許され、「暇つぶし」と自ら称しつゝ、それに没頭することによつて悠々自適の快を味ふとか、自ら孤独の境を楽しむとか、更に、隠忍風雲を待つといふやうな精神的満足を得る場合もあります。
手狭な住居のそここゝを利用して、丹念に盆栽の鉢を並べる人々の心境は、西洋での草花の鉢
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