現代はその意味において、伝統の危機とも云へるのですが、またそれだけに、慣例の名目で少からぬ陋習が「家」の生活のなかにはびこつてゐます。
 これらの陋習は、或は迷信に属するもの、或は家長の越権に基くもの、いはゆる家族個人主義と称せらるべきもの、老人の偏見狭量によるもの、など、様々な原因から生じるのでありますが、主として、「家」の精神の歪曲と伝統の形骸化に帰することができます。
 でありますから、これを打破し、是正する方法として、徒らに合理主義を採ることは、更に新たな危険をはらむことになります。
 そもそも「家」の観念は、日本の「国家」観念と同様、その最も健全な本源に遡つても、それは、決して、今日の合理的立場なるものと相容れる筈はなく、そこには「宿命」があり、「信仰」があり、「血液」の神秘があるのであります。
 家族内に於ける新旧思想の衝突とは、嘗て屡々口にされたことでありますが、個々の特別な場合を除いて、多くは、「若い合理派」が、年長の保守的非合理派と対した結果であらうと思はれます。

[#7字下げ]八[#「八」は中見出し]

「家」の観念を基礎とした様々な現象が、日本文化の特色の一つであるとすれば、「道」の思想に貫かれた日本人の常住坐臥の法則もまた、文化的にみて、異色あるものであります。
「道」といふ言葉の用法は実に広く、いちいち例を挙げて説明をすればきりがありませんが、こゝで云ふ「道」とは、かの「武道」をはじめとして「書道」「茶道」「華道」などに至る、精神と技術との一体観に基く修練の本義を指すのです。
 外国には「武器を操作する技術」はいろいろありますが、これを、「武術」といふ名でさへ一括してはゐません。まして、「武術」から一歩を進めて、「武道」と称する日本人の真意は到底汲むことはできますまい。それと同じく、「書法」はあるが「書道」はなく、特に、「茶道」「華道」に至つては、まつたく日本人独得の生活観から生れたものであります。

「道」の到りつくところは、何れの「道」に於ても人間の完成であり、生活の充実であります。技《わざ》を練ると同時に、肚《はら》ができ、人間が大きくなるとされてゐます。果してそのとほりいくかどうかわかりませんが、理想はそこにおいてあるのです。
「武道」は「武士道」とは違ひますが、勝負を決する精神と技術であり、「武の道」と云へば、必ずしも「武道」
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