ののやうに思はれます。もちろん、後世に至つて、仏教思想の影響もなくはありませんが、むしろその根源は、国肇ると共に芽生えた一死奉公の赤誠にあると断じて誤りはありません。
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かへらしとかねて思へは梓弓なき数にいる名をそ止むる(楠正行)
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君国のために生命を捧げることが臣子の本懐とするところでありますから、最期を飾るといふことは、最も死甲斐のある死に方をすることであり、犬死といふことが最も恥とされてゐます。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、「葉隠」の有名な言葉ですが、こゝに至つて、死ぬことが忠義であり、武士の念願であるとまで考へられたのです。死をもつて賠ひ得ざるものなしとする勇猛心と、死によつてのみ真に生き得るといふ悟道とが遂に一体となつて、この哲学は今日もなほ国民の精神を鼓舞するに足る力を持つてゐます。
一方、武士道のかういふ死生観は、庶民の間にも影響を与へたと同時に、日本人すべての「生死」といふ観念に、仏教的な厭世思想を超えた、なにかもつと激しい、そして一面には、無頓着と云ひたいほどの特色をもたせる結果となりました。
「死ぬ」といふことを案外なんとも思はないほど不気味なものはありません。ほかからみれば不気味に違ひないけれども、日本人自身には、それが当り前なのです。
しかし、これは、日本人の「生」といふものに対する考へ方と無関係ではありません。日本人は、「生きる」意味をどの程度重大に考へ、「生き方」について、どの程度真剣に思ひをひそめてゐるかといふと、この点はいろいろ問題があると思ひます。
立派に死ぬことは立派に生きることであるといふ真理は、日本人によつてのみ会得されたのでありますが、それは生命への執著を絶ち切る無上の啓示であることはわかります。
ところで、立派に生きる道は、立派な死以外にはないでせうか?
「ない」と答へることは容易です。事実、立派な死ぐらゐ、人生を意義あらしめるものはないからです。日本人はさういふ「死」を死ぬためにこそ「生き」てゐるのだといふ象徴的な言ひ方さへできるくらゐです。
私は、この場合、既に、「立派な死」といふ言葉のなかに、「立派な生」といふ意味をも含めたものとして考へたい。言ひ換へれば、「立派に生き」得るものでなければ、「立派な死に方」はできぬといふことです。
今日の日本人が
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