り、如何なる事態に立ち至らうとも、同胞互に一椀の食を悠々分ち合ふ悦びと意義とを、今日只今から、国民すべての胸にしつかりと植ゑつけておかなければなりますまい。
為政者の「我慢をせよ」といひ、「間に合せよ」といふ言葉を、国民は、殊に青年は、文字どほりに受けとつてはなりません。そこには、むろん、「いたはり」の意味もあるのでありませう。しかし、日本の将来は――日本の飛躍と興隆とは、決して、そんな「生ぬるい」消極的な態度によつて約束されるものではないのであります。
[#7字下げ]六[#「六」は中見出し]
日本の現代文化は、しかし、前に述べたやうな、卑俗な現象ばかりで成り立つてゐるのではありません。
国民の健康な常識は、おほかたこれを軽蔑し、嘲笑し、憎んでさへゐるのです。ところが、知らず識らず、それに慣れ、無反応になり、やがては、かういふものかと諦めるやうになるといふわけであります。
それなら、何処にわれわれの美しい歴史と、誇るべき伝統があるのでせう。
近代風な街の何処をみても、そんなものは見当らないやうに思はれます。すると古典的な、格式を保つた日本の「家」の光景が眼に浮びます。
それは、大都会にも探せばあるでせう。地方の小都市には、それでも旅行者の眼につくほど残つてゐます。しかし、最も普通に、そこにもかしこにもしつかりと根を張つてゐるのは、都会を離れた農村だと私は思ひます。
痛ましく荒れ朽ちた農家をみるのは、都会のいはゆる貧民窟をみるより心淋しいものですが、それに反して、いくらかの立木に囲まれたおつとりとした旧家の、広くはなくても掃き清められた中庭に面して、大根や柿などを軒に吊した日当りのいゝ母屋の縁に、孫の守りをしながら糸を紡いでゐる一人の老婆の、静まり返つた姿などをふとみかけると、もうそれだけで私は、頭がさがり、胸が熱くなるのであります。そこには、なんと説明のしやうもない日本の「家」の香りが漂つてゐて、歴史の尊さといふやうなものが感じられます。ひとつの光明であります。
かういふ「家」なら、現代の日本には、まだ数限りなく存在する筈です。これが日本の強みだとは云へますまいか。
日本の農村が国の力として重要な位置を占めてゐるといふことは、たゞ、そこが主な食糧の生産場であるばかりではなく、最も数多い壮丁の健康な培養地だからであつて、農本国家と称せられる意味も
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