するにも、我慢のしかたがあります。先づ第一に、「十分なこと」とは、何を指すのかが問題であります。云ふまでもなく、これは正しい理想を指すのでなければなりません。
それなら、その理想を実現するために、何が足りないかを考へる時に、われわれは、往々、「物」乃至「金」の不足を第一に挙げはしないでせうか。その次には、「時間」の不足でありませう。そこで、その不足を、なんで補ふかといふ、最も肝腎なところへ来ると、もはや、「理想」からはほど遠い、現実の低い要求のみを頭におき、「間に合ふ程度で我慢する」といふことになります。それはどういふことかと云へば、物と金と時間との不足を、最大限に補ふ工夫と努力、即ち、肉体と精神とによる人間能力の最高度の発揮といふことは、あまり問題にしないのであります。「どうせ物がない」、「どうせ金がない」、「どうせ時間がない」といふやうな、諦めとも捨鉢とも云へる気分が先に立つて、飽くまで最善を尽す張合を失ふといふ傾向がみられます。こゝが非常に危険なところであります。
なぜなら、この傾向から、二つの悲しむべき現象が生じます。
一つは、「なんでもかまはぬ。損をしさへしなければいゝ」といふ責任のがれ、一つは、「出来るだけ苦労をしないで、うまい汁を吸はう」といふ射倖心理であります。
さて、そこまではいかぬとしても、この傾向は、多くの場合、一種の現実主義と結びついて、文化感覚の麻痺を促し、当面の問題に対して功利的な判断しか加へることができず、その点で性急に安全な効果をねらふあまり、最も「卑俗な」手段を最善の手段とみなす鼻息の荒い「実行家」を輩出せしめます。
これが抑も、一世を挙げて、風俗の悪化、文化の低調を招く著しい原因でなくてなんでありませう。
明治以来の「間に合せ」主義が、現在の国民生活をある面に於て甚だしく脆弱なものとしてゐる事実を考へたならば、この時局下に於て、物資の欠乏と労力の不足とを忍び、更にこれをなんらかの方法によつて補ふために、われわれは、おなじく「間に合せる」覚悟をし、その実践を励むにしても、決して「好い加減なところで我慢をし」てはなりません。飽くまでも、国民としての矜りを堅持し、戦時生活を見事に強化する理想を掲げ、「あるもので間に合せる」ことに満足せず、進んでわれわれの美風を日常衣食の間に生かし、醇乎たる「無駄なき余裕ある生活」の伝統にかへ
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