共に帰国した、その直後に起つた事件がこれだといふことがそこでやつとわかりました。純洋館の生活にまだ慣れてゐない日本人の、自分でそれほどとは思つてゐない不覚が、結局この始末なのであります。

 ところで、一方、かういふこともあるのです。これも近頃の話ですが、支那から数人の名士を招いてある団体が交歓をした、その節、一夕、東京の有名な支那料理店に席を設けて御馳走を出したところが、客の支那名士は、微笑をたゝへて、主人側の日本人に向ひ、「大変おいしい日本料理ですね」と云ひました。支那料理のつもりだらうが、一向支那料理らしくない。風味がまるで違つたものだといふ意味を、婉曲に述べたものと察せられます。
 これ果して、主人側の予期したところであるかどうかは知りませんが、かういふ現象も往々にして起り得るわけで、それは、日本人の同化力の例外的な現れではないかと思はれます。これは、取りやうによつては、それでいゝのかも知れませんが、私の日本観からすれば、むしろ、「似而非《にてひ》」なるものの存在を極度に排斥するわれわれの潔癖が、さういふものを許さないのではないかと思ふのです。
 立場をかへて、西洋化した刺身や、支那臭を帯びた味噌汁などといふものを、これが日本料理だと云つて出されたら、恐らく箸を取る気にもなれますまい。風味はともかくとして、そこには、なにか、冒涜といふやうな言葉に通じる倫理的な不純さがのぞいてゐる気がするからです。
 努めて及ばざるは致し方がありません。しかし、及ばざることを知ることが必要であり、知つてゐる以上、相手を弁へたらよからうと思ふのです。
 同化といふことは、これでなかなかむづかしいのでありまして、徒らに外国のものを日本色で塗るといふやうなことではありません。
 支那料理は、支那料理を好むもの、支那料理の味がわかるものが食べればよいのです。或はまた、日本料理のなかへ支那料理風のものを採入れて、一品異国色を調和を破らない程度に混ぜることも面白いでせう。しかし、純正な支那料理を、日本人のあまり舌の利かない口にも合ふやうに改悪して、これが支那料理だと誇称することは、およそ、日本人らしくない無神経なやり方ではありますまいか。これを「はしたない」といふ言葉で現します。「嗜み」を欠くといふ意味であります。
 西洋料理についても同断です。如何はしい洋食の氾濫は、まつたく無きに如か
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