活精神、殊に、明治以来の青年の指導精神を、彼等にわかりよく伝へなかつたところに罪がありますが、昔の精神が忘れられてしまつて、形だけが残つてゐるといひませうか、かういふことはわれわれも考へ直さなければならないと思ひます。
男子は小さなことに気がつくやうではいけない、殊に衣食住のことなどにかかはつてゐては大きな仕事はできない、何よりも勉強だ、仕事だ、といふ精神が日常生活に対する配慮を軽視させる結果を生んでゐる。従つて現代の日本人は計画的な生活を営む技術を全く忘却し、自分では、さういふことに気がつかずに、たゞぎごちない生活から来る焦燥感を絶えず味つてゐる。一般の家庭生活といふやうなものも、男性の多くからは、私生活として軽く扱はれ、女性のみがあくせくと消極的な心の配り方をしてゐるに過ぎない。かういふ生活の中からは、ほんたうに充実した仕事は生れないのです。まして、豊かな国民文化といふやうなものは育つわけがありません。現代の日本人は、それでも金が出来たり、年をとつて閑になつたりすると、幾らかは自分の生活を顧みて、一種の修繕工事に取りかゝるのですが、これが多くは、例の他愛もない道楽になるのであります。
現代社会のあらゆるところに唾棄すべき悪趣味が氾濫してゐるのは、多くはこゝに原因があると思ひます。
生活を精神と技術といふものに分けて考へます時、先づ生活精神とは、これを生活観といひ換へてもよいのですが、われわれ日本人はいかに生くべきかといふ国民としての一つの心構へであります。いふまでもなく、われわれが日本といふ国に生れたといふことはこれは天意であります。国民の一人一人は、何よりも先づ祖国のために、この与へられた生命を完全に生き抜く決意が必要であります。仮りにも自分の生活を自分だけのためと考へることは許されません。一家のためといふ考へ方すらも、それが若し一家のみの安泰幸福を意味するならば、やはり誤つた考へ方と云はなければならないのでありまして、個人としての立派な生活とは国民としての矜りに値する生活を指すのであります。国民として力強く、正しく、しかも美しく生き抜くことの幸福は、それが国全体の力となり、国全体を正しく伸し、美しく育て、行く一つの役割を果すといふ意味で、満足に値するものだからです。個人的な感情が日々の生活のよろこびと悲しみに応へるといふことはありませう。これもおろそか
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