日本当局の御参考になつたと思ふが、この場合「旧劇」は百害あつて一利なきことを注意して欲しかつた。フアンク・イデオロギイをもつてしては、却つてその反対が云ひたいかも知れぬが、日本国民の一人として、私は真に「日本的なるもの」を「旧劇」のなかに見出される苦痛を感じないわけに行かぬ。これは「旧劇」に限らない。所謂、日本の伝統的風俗習慣を外国人の目にさらして、どういふ利益があり、どういふ誇りを示し得るかを考へてみればわかる。「珍しい」といふことは自慢にはならない。日本人や、特殊の日本研究家に「厳粛」で「愛す」べき情景と感じられるものが、実は、多くの欧米人、殊に大衆にとつて「グロテスク」で「浅薄」に感じられる場合が非常に多いことを注意すべきである。ところが、欧米人が日本に最も興味をもつのは、案外、かういふ部分なのであつて、その好奇心を助長し、刺激するのは、日本人、殊に、西洋人相手の商売人と、外人客の機嫌取りに汲々たる政府当局であるとすると、われわれは、泣くにも泣けないのである。
ある西洋人は私に語つて云ふには「日本人がわれわれになんかと云ふと富士やサクラやゲイシヤを見せびらかす量見がわからぬ。なにひとつ日本人の民族的能力を示すものではないではないか。この日本人のやり方を、西洋の心ある人々は苦々しく思つてゐる。胸がわるくなる」と云つてゐる。
これを聞いて、私は、至極同感であると答へた。が、その時、ひそかに思つたことであるが、それよりもなお変なのは、日本人が外国人に向つて、自分たちは如何に愛国心が強いかを吹聴する癖のあることである。一種の示威的行動と見られないこともないが、それが、そんな必要のない場合つまり、単なる社交的儀礼にさへそれを示すのであるから、相手は挨拶に困るであらう。「これほど愛国的な国民なのだから、お前たち無礼を働くと、目にもの見せられるぞ」と威してゐるわけだが、その反面に、日本人の非常識な行為、時代錯誤の風習、非紳士的言論が普《あまね》く彼等の眼や耳に伝へられてゐるのだから、なんにもならぬ。つまり、東洋人、殊に未開人種共通の「自尊心」が近代の国家意識と結びついて「愛国者|面《づら》」をしたがるのだと解せられてもしかたがないのである。
西洋のどの民族にもこの種の自尊心はあるにはあるが、その現し方が、もつと巧妙で洗練されてゐるところが大に違ひ、例へば、自国の真相
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