へを受ける必要はないのである。たゞ、当事者がそれを、欲し、プランを樹《た》て、これを実行に遷せばよい時機なのである。
先づ、経済的な立場から、市場の拡張もはからねばならぬことは自明の理で、それがためには、どうしても、より一層合理的な撮影所の機構を完備しなければならぬ。私は敢て云ふが、部分的にアイデイアだけでは駄目だ。根本的なシステムと人的材料の整備、訓練が必要である。
既成の会社は、種々の関係で急速に改革は望まれないかもわからない。そこで、私の考へとしては、先づ、政府の負担に於て、民間の有為な技術家芸術家を網羅した研究機関を設立すべきである。この場合、外国の専門家を交へることが有利であらう。
この研究機関は、一種の官立アカデミイの母胎となるもので、将来は、技術家(監督、カメラマン、録音技師、俳優、シナリオ・ライタア、批評家等)の養成に進まねばならぬ。勿論、基礎的な、理論と実習に重点を置くものであるが、必要に応じ、こゝでは、統一あり、権威ある「文化映画」の製作を試みることもできるだらう。国家の名において外国の市場にまみえるこの種の作品が、今日の如き状態では、却つて逆効果を生む恐れがないとは云へない。これは絶対に統一強化さるべきであつて、そのためだけにでも、相当完備した永久的な研究製作所の独立を必要とするのである。
このアカデミイに最も期待すべきは、技術家、殊に、新俳優の養成である。
西洋映画の強みは、監督の技倆や機械的な設備以上に、かの豊富にして熟練な「教養」と「生活」をバツクとする俳優群の魅力ある演技なのである。この点、フアンク氏は、その直接使用した俳優への好意ある批評を含めてゞあらうが、日本映画俳優一般への認識に恐ろしい「甘さ」があるやうに思へる。彼はむろん、この領域に於て専門的批判者ではないが、少くとも、東洋人に対する好奇的な眼が、俳優の特性なるものを忘却して、愚かなる人間としてのエキゾチツクな美を謳歌せしめたのだと見てさしつかへない。これも映画的効果としては十分生かし得るものであるが、同国人たるわれわれにとつては、エキゾチスムは、零《ゼロ》と計算すべきであるから、フアンク氏の御世辞で鼻を高くするには当らぬのである。
日本紹介のために「文化映画」よりも「劇映画」の効果あることを説くあたり、流石《さすが》に、欧羅巴《ヨーロツパ》的教養を感じさせて、
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