を平気で伝へて、それに対する自国民の批判が織り込んであるといふ風なのは、誰が見ても、その国民を軽蔑する気にはならぬのである。軍隊の戯画化や、社交界の暴露や、学校教師への諷刺やさういふことが盛んに行はれてゐる。最近のフランス映画でも「沐浴《ゆあみ》」の如きは、陸軍将校の私生活を極度にだらしなく描いて、仏蘭西《フランス》軍隊はさんざんのやうに見えるが、別にそのために独逸《ドイツ》人は仏蘭西を恐れなくなるわけではないことを知つてをり、フランス当局も亦、これは国辱映画だなどゝ輸出禁止をするやうなこともしないのである。つまり、フランスは、モオパツサンを生んだことで十分得意なのである。そして、あの映画が「芸術的」に真実を伝へ得たら、それで、国威を発揚したことになると信じてゐるのである。

 映画が一国の「宣伝」になるといふ意味を、もつと広く考へてみなければならぬ。独逸《ドイツ》などは目下特別の事情にあるから問題にならぬが、それさへ、材料の優秀さによつて、露骨に形式的統制をカムフラジユし得てゐる。ナチスの党旗はなるべく出さぬやうにし、ヒツトラアさへも、俳優に劣らぬ「演技」をもつてゐるのである。こゝが面白いところで、一般西洋映画の魅力の抑《そもそ》もの土壌を思はせるものである。ヒツトラアに限らず、政治家に限らず、彼等は、田舎の農民一人を取つてみても、肉体的条件を別にして、どこか、人間的に「生活」のこなれた表情をもつてゐるのである。社会的訓練のお蔭ではあるが、日本では、この社会的訓練を補ふ意味の教育が、先づ俳優に授けられるけれど、映画は断じて、見るに堪へるものとはならず、西洋人の前に出して、日本の真の姿を「芸術的」に認識せしめることが困難なのである。芸術的にとは、畢竟、粉飾を施すといふことではなく、「正しい批判を加へて」といふ意味に外ならぬ。一例をあげれば、小学校の内部を映写するとする。小学生はまづよろしいとして、先生が教壇から熱心に何かを教へてゐるところで、現在の日本の俳優は、誰一人スクリーンを通じて、真に先生らしい先生の姿を呈することは不可能なのである。(この際、実物の先生を連れて来ても駄目である)なぜ不可能かと云へば、演技以前の「生活」がないからである。現代の小学教師を正当に「感じ」得る教養と精神がないからである。形は真似るであらう。魂が抜けてゐるのである。俗衆はこれに気がつか
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