伝へられて居ります。併し其の阿国のやりました歌舞伎と云ふのは勿論体裁の整はない雑駁なものであつたに違ひないが、其の趣向が都に流行してその専門家が出て来る様になり、後に歌舞伎と云ふ一つの完成された演劇に迄発展して行つたのであります。然し徳川時代にやられた歌舞伎は特殊な劇場の構造を持つて居りまして、今日東京に在る歌舞伎座を始め多くの劇場は、日本の在来の歌舞伎劇場の構造とは非常に違ひます。其の事を先づ頭に入れておく必要があります。今日の東京の劇場の大部は西洋の新らしい近世の劇場の形を採入れました。偶々それに舞台の広さ或は花道をつけると云ふことで、幾分歌舞伎劇の劇場の構造をそこに保存したものであります。それから歌舞伎狂言の種類と云ふことを其の次に申します。同じ歌舞伎劇と云つても其の中に色々な種類があるのです。之は大体に於て三つに分れて居りますが。先づ人形浄瑠璃から採入れたもの、最初人形浄瑠璃の為の脚本であります。之を歌舞伎の俳優がやる様になつて歌舞伎劇は発展したのです。皆さん多分お聴きでありませうが、仮名手本忠臣蔵は人形浄瑠璃から採つた題目であります。能狂言からのテキストを歌舞伎の方に直したも
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