、之は希臘劇以来、近代劇に到る迄或る優れた舞台を見ますと、其の舞台の上には必ず其の戯曲の作者と云ふ一つの天才が光つて、芝居全体を先づ観客の胸に投げつける。日本の能狂言、歌舞伎はさういふ風な仕組になつてゐない。歌舞伎はそれではどういふ風になつてゐるかと云ふと、舞台の上に現された一つの芸術的なエナヂーが非常に多勢の人間の長い工夫と練磨による創造といふ形をとつてゐる、さういふ印象を与へます。詰り舞台の上の美しさ、調和といふ様なものが非人称的であります。私でも、お前でも、彼でもない、非人称的な、理論とか体系といふものを超越した一つの感覚的の美しさ、此理論とか体系とかを超越した感覚的な美しさと云ふものはどう云ふものを云ふかと云ふと、普通人間ならば誰でも感じ得る美しさを圧縮し、それから整理し、それから磨き上げる。此圧縮と整理とそれから洗練の境地、さういふものが能狂言或は歌舞伎の舞台では見られる。之が恐らく外の如何なる種類の芝居、演劇にも見られない一つの特色だと思ひます。之は自然の写実的な模写といふ様なものでないし、又逆に自然と云ふものを枉げて、歪めて、それを或る一つの形式に当嵌めたものでもない。自然の中に在る一つの典型、それを拡大し、それから単純化し、そして一つの象徴的な意味を与へた。それが象徴の姿になつてゐる。そこから例の日本芸術特有の幽玄とか、或は粋とか云ふものが生れて来る。それから義理人情に対する純粋な感動。さういふものが生れて来る。従つて舞台の上には或る限られたる個人の思想といふ様なものがありませぬ。それから或る流派の哲学といふ様なものも無い。無論特異な頭脳、特異な頭から出た独創と云ふものも無い。唯其処にあるのは或る時の或る社会層が築き上げた趣味、それから道徳。さうして其のある時代の社会層が築き上げた趣味とか道徳とか云ふものは、常に他の時代の他の社会層にも受け入れられる。之が日本の能狂言及び歌舞伎が、或る時代には非常に一般民衆と関係のない離れた存在にあつたのでありますけれども、或る時代に又力を盛り返して来てそれが一般民衆の要求に答へるものになつたわけで、さう云ふことを今日迄繰返し復た今後も繰返すだらうと思ひます。
 次に今迄挙げました、今日日本で行はれて居ります芝居の色々な種類の中で特に皆さんが御覧になる上に斯ういふ点に注意して見て戴きたい、又外の芝居と斯ういふ所が違つてゐるといふ、極く要点だけをかい摘んで簡単にお話します。元来能狂言にしろ歌舞伎にしろ其の研究には相当の時間を費さなければならないほどの材料があります。それをたつた五分か十分でお話するのでありますから、どの程度の事が皆さんの頭の中に入れて戴けるか疑問でありますけれども、恐らく何かしら其の入口を指示することが出来はしないかと思ひます。先づ能狂言と云ふのは、日本に於ける本格的な演劇と云ふものが完成された其の最初のものであります。本格的な演劇とはどう云ふものかと云へば、詰り戯曲のテキストがあつて、それに依つて俳優が舞台の上でそれぞれの役を演ずると云ふ形式の備はつたものであります。能狂言はさう云ふ形式のものが日本にできた最初のものであつて、能と狂言とは同じ舞台で演ぜられました。併し其の劇としての内容は全く趣を異にして居りまして、恐らくこの能と狂言とはその起源が可なり前から分れてゐたものと思はれます。能と云ふものは楽劇式、音楽を使つた芝居、楽劇式の芝居で悲劇である。狂言の方は仕草で以て演ずる喜劇であります。之は双方共それを作つた作者もまたそれを演ずる役者も別でありまして、丁度之は西洋の古典喜劇と古典悲劇の作者と役者が違つてゐるのとよく似て居る。能の方は謡曲と云ふ戯曲のテキストがあつて、さうして其謡曲と云ふのは歌はれる様に書かれてあります。之が型と云ふ役者の所作、それから囃しといふ音楽を伴ひ、全く外の劇場の舞台と違ふ能舞台といふ特殊な舞台で演ぜられる一つの楽劇であります。狂言といふのは其の言葉の由来に色々説がありますけれども、元来筋道の立たないといふ意味をもつた言葉です。之は能狂言の発生以前から行はれて居る猿楽といふ舞楽がありますが、其の流れを汲んだものであつて滑稽と諷刺とからなつて居ります。能の方は一種の文章体で殊に韻律を主とする、謂はゞ散文詩の形で書かれてあるのに反して、狂言の方は専ら其の時代に用ひられた普通の言葉で書かれて居ります。従つて写実的な要素が多く、武家、大名の私生活を描いてゐることが狂言の特色であります。今日能狂言は東京で殆ど例月やられて居りまして非常に盛になつて居ります。日本に来て代表的な芝居を見るといふので能をよく観る人があるのでありますけれども、大体能を見て居ると眠くなる。眠くなる様に仕組まれて居る芝居の様に考へられるのでありますが、之は実際時代の隔たりと、
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