形式は単純でも深い象徴性のために、さういふものが却々普通の人の興味の対象にはなりにくい。何か一つのものを突破られなければその真の魅力が感じられない。さう云ふものであります。之は決して外国の方許りでなく日本人でも能と云ふものは特別親しんだものでなければ、今日では却々観賞が出来ないものになつてゐるのでありますが、併し一旦この能が面白くなりますと、もう恐らくどんなスペクタクルよりも此能が面白い。外の芝居の面白さには限りがある。併し能の面白さには限りがない。普通の芝居の面白さは、大体に於てテーマや筋立の面白さが主である。能の場合には刻々の舞台のイメージが純粋な感動を与へるのです。泣くと云つてもたゞ悲しいから泣くのではなく本当の美しさに打たれて涙を流す。これは、舞台の芸術の中では能芸術だけがさう云ふ境地に這入り得るものである。で、能は一体何処が面白いのだ、一口に話して呉れと云ふが却々実際は一口に話せるものではない。能の面白さを口で話すことは、料理の話を旨くするよりももつと難しいのであります。ですから能に這入る為には一通りの色々な予備知識をもつよりも、寧ろ自分の感情、感覚を研ぎ澄ましてからでなければならぬ。さう云ふ状態は却々一朝一夕で得られるものではないのであります。同時にそれは知らず識らずの裡に引込まれて行くと云ふ性質のものであります。で、現在の能には家元と云つて流派がある。其の流派は五つあります。観世、宝生、金春、金剛、喜多と云ふ五つの流派があつて夫々の劇場を持つてゐます。能の方の番組、プログラムについて一寸お話ししますと、大体五つからなつてゐる。詰り五つの演目からなつて居ります。極く解り易く云ふと最初のものは神または神に準ずるものを主役としたもの。能では主役をシテといひます。第二は男を主人公にしたものであります。男と云ふと之は矢張り日本の一つの習慣でありますけれども、武張つたものと云ふ事を意味するのであります。ですから男を主人公にしたものは主として武人、武士であります。さもなければ修羅もの、非常に乱暴な人物であります。其の次に三番目に女、四番目に狂女、之は気の狂つた者、それから五番目は鬼、または動物、此大体五つのものを以て一組としまして夜の興行とするのが習慣であります。
 それで能の主題或は思想と云ふものはどう云ふものかと云ふと、一口に云へば人間の煩悩、執着とか、或は迷妄、嫉妬と云ふ心理を取扱ふのです。それから或事件に打突かつて人間が或る覚悟をする。其の決心覚悟と云ふ心理、それから親子の愛憎、もう一つ重要なことは義理の悩み、それから離別の悲しみ、訣れの悲しみ、さう云ふ一つの心理をクライマックスとする劇であります。此能で一番大事なことは面の使ひ方でありまして、其の面がこの能の演劇の中心で重要な地位を占めてゐる。面其のものゝ構造と其の面の使ひ方、先づ能の面と云ふのはどういふ風に造られてゐるかと云ふと、目は何時でも大きく開いて、それから視線と平行に造られて居る。ですから冠つてゐる面の角度を見物の方から変へる毎に、非常に印象的な表情になる。それから唇は閉ぢてもゐなければ開けてもゐない。さう云ふ唇であります。ですからものを言ふ時黙つてゐる時、其の両方に通ずる。詰り何方でも不自然でない様にする。顔面の筋肉は極く必要な部分だけ彫られて細かい皺とか或は凸凹と云ふものは造らない。極く重要な必要の筋肉だけが彫られて居ると云ふことは、それは顔を動かして居る時も、じつと静かにして居る時も、それが両方に通じる様に出来て居る。ですから面の表情と云ふものには何時でも静動の両面がある。云ひかへれば静かに動いて居る。それから明るい相、それから暗い相、両方が何時でも面の使ひ方に依つて示される様に研究されて居る。此面の作者、面師は今日迄能の上で非常に重要な技術者として多くの天才がでて居るのであります。ですから能の面は一つの美術品として尊重されるのであります。仮面劇と云つて面を使つてする芝居は随分世界にありますけれども、面が斯う云ふ風な方法に依つて芝居の中で絶対的な地位を占めて居ると云ふ面は外にはない。それから舞台の上の道具でありますが、能の特色は舞台の上に一杯に道具を飾ると云ふ事はしませぬ。所謂舞台装置と云ふものは非常に単純を極めたもので、其の舞台の装置を補ふには何で補ふかと云ふと主役の型、つまり演伎、それから歌の文句でそれを補つて行く。其処はどう云ふ場所であるかと云ふことを見物に連想させる様に、例へば月を示すには其の月の歌で月を表徴する情景を示す。其の主役は其の月を見仰ぐ表情をする。其の月を見る表情と其の詩歌の文句とが渾然と其処に融け合ふ。山の上や森の上に月が煌々と照つて居る情景が実に髣髴と浮んで居ると云ふのが能の特色であります。能に就ては色々申上げたい事がありますが
前へ 次へ
全10ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング