、此位にして置きます。
次は歌舞伎の事を申上げます。歌舞伎は所謂近世の民衆劇であります。先程お話しました様に能狂言が中世以降、武家、社会の上層階級の武家の手に依つて保存され、其の嗜好に適した演劇であつたとしますと、歌舞伎は全く民衆の手に依つて作り出され、民衆に最も愛好され、民衆に依つて育てられて発達したものであります。
之は徳川幕府の初め慶長年間に起つて来た一つの演劇形式で、もう既に三世紀の歴史を持つて居ります。之は記録に依りますと阿国と云ふ一人の少女があつた。この阿国と云ふ少女は出雲の国の或る神社に勤めてゐた巫女であります。巫女と云へば神社のお祭りに踊りを踊つたり歌を唄つたりするものであります。其の踊や歌の素養がある為にどうかすると其の神社のお社を改築すると云ふやうな場合には、其の当時の都の京都に出て来て、矢張り踊りを踊つたり歌を唄つたりして金を集めると云ふことをした。此の阿国と云ふ少女は仲々器用な少女であつて神社の前でやつた芸に色々なものをつけ加へる。各地方で行はれて居る色々な催しの要素を採入れて大勢を喜ばせる様な一つの仕組を考へた。之が詰り歌舞伎の元々の起りだと云ふことが言ひ伝へられて居ります。併し其の阿国のやりました歌舞伎と云ふのは勿論体裁の整はない雑駁なものであつたに違ひないが、其の趣向が都に流行してその専門家が出て来る様になり、後に歌舞伎と云ふ一つの完成された演劇に迄発展して行つたのであります。然し徳川時代にやられた歌舞伎は特殊な劇場の構造を持つて居りまして、今日東京に在る歌舞伎座を始め多くの劇場は、日本の在来の歌舞伎劇場の構造とは非常に違ひます。其の事を先づ頭に入れておく必要があります。今日の東京の劇場の大部は西洋の新らしい近世の劇場の形を採入れました。偶々それに舞台の広さ或は花道をつけると云ふことで、幾分歌舞伎劇の劇場の構造をそこに保存したものであります。それから歌舞伎狂言の種類と云ふことを其の次に申します。同じ歌舞伎劇と云つても其の中に色々な種類があるのです。之は大体に於て三つに分れて居りますが。先づ人形浄瑠璃から採入れたもの、最初人形浄瑠璃の為の脚本であります。之を歌舞伎の俳優がやる様になつて歌舞伎劇は発展したのです。皆さん多分お聴きでありませうが、仮名手本忠臣蔵は人形浄瑠璃から採つた題目であります。能狂言からのテキストを歌舞伎の方に直したも
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