た所以であるが、いま、われわれは、周囲を見渡して、似而非愛国者と、無意識的「非国民」との数が圧倒的であることに慄然とし、未だ嘗て、いつの時代、どこの国にも、かくの如き現象はなかつたであらうといふ事実を、われわれ以外のものが誰も指摘しないことを歯痒く、遺憾に思ふだけである。

       六

 日本を愛する人々を愛国者と呼ぶになんの妨げがあらう。ただ、愛国者たる以上、その名に値する「愛国的行動」を為さねばならぬといふ考へ方はどんなものであらうか? 自ら「愛国者」と名乗ることすら、真の愛国者の資格とは関係のないことである。
 僕は自分が真の愛国者ではないと、人から評されることを怖れはしない。しかし日本を愛するが故に、日本の現状が堪へ難きまでに憂鬱であることを、訴へる権利と義務があると信じるのである。その憂鬱はどこから来るかといへば、日本人がお互に軽蔑し合つてゐるといふところから、日本人がお互に信じ合つてゐないといふところから、日本人がてんでんばらばらに、勝手なことを考へてゐるといふところから、日本人が、日本はどうなつても自分さへなんとかなればと思つてゐるところから来るのだと思ふ。日本人は、日本人である前に、まづ人間として、共通の理想を有たなすぎるといふことを、なんとかして日本人全体に気づかせる方法はないものであらうか?

       七

 僕は、日本国民として、日本のどこが好きか? と問はれれば、ちよつと困ることを告白する。はつきり云へないといふよりも、そんなに好きなところはないやうな気がするのである。しかし、それは贅沢を云つてゐるのだといふこともよくわかる。例へば、日本の現代文化にしても、不消化のまま、歪んだまま、無選択のままである状態はいやだが、あるべきものは、ちやんとどこかにあるのである。それを伸び育たせる努力と計画が不足してゐることは、われわれの罪である。(実は政治家の罪だと思つてゐるのだが)
 僕は文学者として、別に「愛国文学」を作り、又は提唱しようとは思はぬ。国民大衆の愛国心は、所謂「愛国主義者」のデモンストレエシヨンによつて、判断することもできず、官憲や教育当事者の日本精神鼓吹によつて、高め得るものでないのである。現にそれは憂ふべき逆効果を生みつつあることに、彼等は気づかぬのであらうか? フアツシヨの名を以て呼ばれる愛国主義が、いかに心ある民衆の希
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