望を、祖国日本より引離しつつあるかを見ればわかる。(六字削除)徐々に感激を失ひつつある国民を誰が作つたか?

       八

 日本では、かういふ常識的な問題を思想家は軽蔑する風があり、これを取り上げてわいわい云ふのは、みな思想的には訓練のない人間ばかりであつた。いつまでたつても、常識が常識とならず、民衆は、常識下の思想に追随し、今日に於いてすら、殆ど健全なる社会感覚といふものをもたないのである。この上、政治家や官吏や教育家や歴史家やに、常識の問題を委しておいていいかどうか?
 日本精神とか、東洋の平和とか、国語国字の問題とか、故ら社会的関心を示すつもりでなくても、文学それ自身のためにでも、先づ常識の上に立つ大意見を優れた文学者は発表して貰ひたいと僕は思ふ。その意味で、読売紙上に見る長谷川、三木両氏の一日一題は、頗る「愛国的」な文章である。

       九

 僕の愛国心は語る――
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 徳田秋声は、極めて民族的なことによつて、世界的に一流作家である。

 日本の文学者は勲章を欲しがらぬ。欲しくないやうな顔をするものさへ例外である。
 日本人は肉体的な美しさに於いて、西洋人に劣るといふ迷信に、われわれは陥つてゐる。これは迷信であつて欲しい。なぜなら、日本で僕が見る最も美しい男女は、西洋の最も美しいといはれる男女よりも優つてゐる。少くとも劣つてゐない。ただ、平均点がいかにも低いのは残念だ。しかも、その低さは、人権蹂躙の歴史が齎したものだと、僕はふと感じたことがある。日本人に、いかなる人間が美しいかを教へよ。それが徹底しないと、芝居も映画もよくならぬ。(これは少々脱線か?)

 日本の自然は眺めるやうにできてゐる。西洋の自然はそのなかで遊ぶやうにできてゐる。どつちが美しいかわからぬ。そして、どつちが、より「自然」であるか、これは考へものである。

 支那とは日清戦争後当然大使を交換すべきであるとは、十数年前から考へてゐた。支那人をもつと尊敬すべし。少くとも彼等に対し優越感を示すといふことは、まつたく国辱である。

 西洋崇拝と、西洋のある部分に羨望を感じることとは、別ものであるといふこと。現代日本が住み難いと思ふことと、日本以外の国に住みたいと思ふのとは別ものである。なんでもひとつに片づけてしまはないこと。

 仏蘭西人が仏蘭西を、英吉利人が
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