年後でなければ、発表するな」といふやうな遺言をしておく作家がゐるが、これなどは罪なことのやうだが、出たら読まずにはゐられないといふ連中が相当ゐることであらう。
 日記の文学的価値は、自らその外にあるとはいへ、個人の私生活内生活の記録として、生前その著作乃至公の言動からは、窺ひ得なかつたやうな事実が、暴露されることは、二重の意味でセンセイショナルな結果を齎らすに違ひない。第一はその人物の意外な反面を識り、第二にはその人物と周囲との関係に新たな波紋を投げかけることになるからである。
 近代のフランス作家で、私は、ゴンクウルとルナアルの日記を愛読した。両方とも、問題を起した日記である。前者はたしか死後二十年といふ期限つきで発表を許してあつたのだし、後者は死後十五年で出版された。何れもまだ少し早い憾みがあつたとされてゐる。なぜなら、「読ませたくない人間」が当時幾人も生きてゐた。生きてゐる方がわるいともいへるが、第三者が読んではらはらするやうなところを、そこが日記の魅力だなどと、書かれてゐる当人が照れかくしに言つてゐるのを見ると、誠に人生が暗くなるやうである。

 私は何よりも素朴な魂を愛する。
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