です」と答へた。
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 特別にこれといふところを抜き出すのは、なかなか骨が折れるが、
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――毎日書きつけてゐるこれらのノオトは、うつかりすると書いて発表するかもしれない「悪いもの」を、うまく堕《おろ》してしまはうといふわけなのだ。
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とあるのでわかるやうに、彼は、好んで発表する意思がなかつたものとも考へられる。
 従つて、次のやうな文句、
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――もう批評はできなくなる。私の知らない間に私を褒めてゐてくれる作家たちを、そのたんびに怒らせてしまふだらう。
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の如きは、本音とはいひながら、よくもこんなことがいへたものだと思ふ。また、
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――誰も私を愛してゐないといふことは、私の友人たちを悦ばせることなのだ。
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に至つては、彼のために悲しむことをさへ躊躇させる放言だ。しかし、そこまで真実がいひたい彼だつたのである。
 三十八歳の三月、
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フィガロにて。会計で名刺を出す。
「少しばかり貰ふ金があると思ふんですが……」
会計係は、どえらい帳面をひろげる。
「はあ、さやうです。一行五十セントの割ですから、合計三十五フラン五十セントになります」
私は社長に手紙を書いて、こんな稿料では餓ゑ死をしてしまふ。餓ゑ死をするくらゐなら、仕事をしない方がましだといつてやる。
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 こんな愚痴もあるかと思ふと、
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――マアテルランク、読者の退屈を意に介せず、なんでもないことをいつまでも続ける大作品。
――ロスタン、選ばれたる人々と自任する俗衆の詩人。
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などといふ痛烈な批評も交つてゐる。
 晩年に近づくに従つて、この日記は、文字通り赤裸々となり、言葉の遊びから遠ざかり、厳粛な魂の声を聞くやうになる。
 四十六歳、三月――
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――モレアスの死。この次は私の番か? 祖国に背き、若干の美しい詩を書き、そして私を馬鹿扱ひにした詩人だ。
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 同、四月六日――
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――昨夜、起きようとした。からだが重い。片方の脚が外に垂れてゐる。それで、その脚の上から下へ、一筋流れてゐるものがある。踵まで行つた
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