らしい。従つて、それについて、彼是といふ必要もないが、この作は、コポオが現代仏国の代表的作品として選んだのでないことが明かである。
『休みの日』は、幸ひにして欧羅巴の生活に明るい訳者の手を経て、それほどひどいものには勿論なつてゐない。が、主人公ムウトンと之を取巻く人物の生活、その習慣と固癖、典型的な性格表現に用ゐた作者の努力、その想像、その機智は演出の不完全と相俟つて、著しく変形されてゐる。断つて置くが、訳者は英訳を参照したかも知れない。そしてその英訳が、既に原作から遠いものであつたに違ひない。これはよくあることである。なるほど、『雨空』は支那語にさへ翻訳はできないものである。
只、翻訳上の欠点は、或る程度まで演出によつて救はれたかも知れない。然し之も、結局同じ道理に帰着する訳である。あの演出を、少し言葉のわかる、そして原作を読むなり見るなりしてゐる仏蘭西人が見たら何と言ふだらう。
然し、何と云つても、此の最後の出し物は、前の二つほど退屈はしない。もう一息と云ふところまで行つてゐるやうに思ふ。その一と息がなかなか問題ではあるが……。
手許に訳文がないから、一々比較は出来ないが、
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