、極めて知識の浅い僕は、多く学ぶところがあつた。然し結局、劇の形を藉りたポエジイ・フィロゾフィツクに外ならない。たゞ表現の形式から云へば、言語のイメージが、様々な排列と重畳に於て形づくる一種の交響楽であり、色彩と運動と曲線の極めて様式的な想念喚起法であるといへる。然るに、その言語のイメージは、云ふまでもなく、翻訳によつて多少なりともニュアンスを変ずるものである以上、そのイメージが抽象的であればあるほど、また瞬間的であるほど、原作の与へる効果と隔り、殊に、屡々全く異つた効果をさへ生むに至ることは誰しも感じることでなければならない。淡い不安が、極度の絶望となり、厳粛な命令が、滑稽な威嚇とならぬものでもない。それは極端な例であるとしても、これに似た喰ひ違ひは一語一語、一句一句のイメージの中に存在して、総体としての印象、効果に甚だしい誤差を作つてはゐないか。これは誤訳などゝいふ問題ではなくて、翻訳なるものゝ全体に亙る問題であるが、殊に、此の種のイメージのリズムを生命とする、たゞそれのみを生命とする傾向、種類の作品に於て、慎重な考慮を払はなければならない問題である。まして、演劇の形式を取つてゐる場合に、翻訳による此の種の原作の再現は、僕の考へでは、絶対的に不可能である。それを敢てすれば無意味である。早く云へば、『海戦』の翻訳に、上演に、何処に芸術的の美があるか。若しあれば翻訳を通じて、原文を感じ得る箇所だけであると云つて差支ない。沈黙と静止の或る瞬間に描き出される――これは舞台監督の技倆を示すものである――絵画的効果のうちに於てゞある。
 僕は、表現主義の敵ではない。その芸術的手法は、新らしいといふよりも優れたものである。若し、表現主義者が、悉く反抗と、狂燥と、渋面と、それ等の要素のみを人生のうちから選び出す事に興味をもつてゐるのでなかつたら、僕は表現主義者を友人と呼ぶであらう。そして、その友を日本に有ちたい。

 第二の『白鳥の歌』は、名優を俟つて始めて観るべきものであると云ふに止めよう。

 第三の『休みの日』は原作を読んで相当に面白いものであると思つた。僕は、滞仏中その上演を見てゐない。それがヴィユウ・コロンビエ座の上演目録にある事は知つてゐた。別段気を附けてゐた訳ではないが、到頭見ずにしまつた。この脚本を、築地小劇場が、その上演目録中に加へた事は極めて単純な理由である
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング