つたか。さういふ脚本があるか無いか、それもまあ問題にすれば問題にならうが、勿論比較的の話である。

 然し、僕が最も遺憾に思ふのは、それだけの大きな抱負と尊い使命をもつて生れた劇団が、今日まで殆ど物質的努力の大部を劇場そのものゝ建築に用ゐてゐたやうに見えることである。僕に云はせれば、それだけの金力があれば、三年なり五年なりかゝつて、完備した法式による俳優の養成が出来たらうと思はれる。
 固定劇場をもつといふことは、たしかに、一つの劇団に取つて有力な条件に違ひない。しかし、それは、「公演」といふことを考へる時である。「公演」は「努力を見せる」ものではなくて、「出来上つたもの、少くとも出来上つた部分を見せるもの」でなければならない。近々半年の間に、実際、何も出来るものではない。まして、多くの場合、今日の日本では、或るものを造る前に、今までのものを排除しなければならないのだから、その困難は一層大である。
 僕は徒らに理想論を唱へるものではない。色々の事情で「公演」を早めることを余儀なくされるであらう。たゞ、その場合に、その「公演」が「公演」の目的に反するやうなものであることを避けるのが賢明なやり方ではなからうか。言ひ換へれば、故《ことさ》らに好意ある観客を悩ますやうな「公演」を敢てする必要がどこにあるかといふのである。
 失礼な言分のやうだが、僕の真意を酌んで貰ひたい。全く、あの程度の俳優があの種類の脚本を演じることは無謀である。あゝ云ふ種類の外国劇を現今のやうな蕪雑な日本語で演じることは頗る危険である。現在の観衆を前にして――殊に観衆を尊重する意味に於て――かくの如き上演目録は、恐らく上乗のものではあるまい。

 こゝに一つ、劇場側の弁明を仮想して、当分の間は「外国劇及びその演出法」の紹介をするに過ぎない。まあ、ざつとこんなものだ、といふぐらゐの意味しかないのだ、とする。
 それもいゝだらう。それなら、もつと短いものを選んで欲しかつた。
 これだけのことを言つてしまへば、一つ一つの舞台について、演出上の細かい批評はしたくなくなるのであるが、これも義務とあれば拒むわけにも行くまい。実を言へば、その方にはいくらか、僕の心を惹くものが無いではなかつた。

 第一の『海戦』は初めて見る表現主義的演出といふのださうである。元来、表現主義の芸術、更にその主義の演劇といふものについて
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