中村・阪中二君のこと
岸田國士

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)焦《ぢ》れつたい

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔C'est dro^le !〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 中村正常君は戯曲家として世間の一部に名前を知られてゐる人である。僕は同君の作品を殆どみな読んだが、その世界の狭さには一寸驚いた。狭いだけならそんなに驚かないが、その狭い世界をはつきり掴んでゐるのに驚いた。どの作品も、悉く「ある青年がある少女を愛してゐるが、その少女は別に許婚なり恋人なりがあり、その青年をそばへ寄せつけておきながら、その青年の悩みを募らせることしか考へず、青年も亦恋の勝利者たることは一向夢みないで、だが、その少女が時々自分の方を振り向いてくれるといふ不幸な幸福のために、あらゆることを忘れてしまふ」物語である。
 この焦《ぢ》れつたい物語は、中村君一流の甘つたれた調子で諄々と語られるのであるが、それを上の空で聞いてゐると、時々、坊つちやん臭い洒落が耳に残るくらゐで、苦笑の果ては「うるさいツ」と怒鳴りつけたくなるだらう。
 ところが、その人物の一人一人を眼に浮べながら――殊にその人物をおどけた人形か何かに見たてて――ぢつと耳を澄まして聴いてゐると、これはまたとない面白い場面である。〔C'est dro^le !〕 である。ユウモアとかペエソスとかいふ言葉では現はし難い一種の遣瀬ない可笑味がある。
 僕が中村君の中にミュッセとチャップリンとを見出すと云つたら、誰か異議を挟むものがあるだらうか。実際、中村君は、わが国の文壇に於て、ミュッセの如く、またチャアリイの如く独特な存在である。
 中村君は、しかし、まだ感情のなかで生活してゐる。それ故に、詩にイマアジュがなく、機智に風韻を欠いてゐる。やがて、多くの優れた芸術家の如く、生活のなかで感じ得る時代が来るだらう。『赤蟻』は、既にその時代を約束してゐる。

 阪中正夫君は、詩集『六月は羽搏く』の著者であり、紀の川のほとりに生れた純情多感な自然児である。
 彼は戯曲を書きはじめた。「こつちの方がいい」といふところを、「これしかない」と書き始めた。しかし、その戯曲は言葉を超越
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