承知ができないことである。
教へて呉れとも云はないのに、「人間の生き方」などを鹿爪らしく説いて見たり、知りたくもない自分の生活を深刻らしく吹聴したり、従つて、或作品を読んで、さういふものが見つからないと、この作者は「人間が如何に生くべきか」を考へてゐないと云ひ、此の作者は、「一生懸命に生きようとしてゐない」と云ふのである。
いづくんぞ知らん、文学を愉しむ読者は、作品を透して、作者の考へを、生活を、一生懸命さを知らうとはしないのである。たゞ、その考へが――誰でも考へるほどの考へが――どう考へられ、どう現され、その生活を――誰でもしさうな生活を――どう生活し、どう描き、その一生懸命さが――一生懸命になるほどのことでもないと思ひながら――どういふ風に一生懸命になり、それがどう面白く書かれてゐるかを味はへばいゝのである。
勿論、小生がこんなことを云はなくつても少し静かに考へたら誰でもわかることである。「おれが何時それと反対なことを云つた」と怒鳴り込まれない先に断つて置くが、文学者だからと云つて、ほかの種類の人間と、何も変つた考へを有ち、変つた生活を生活し、ほかの種類の人間よりも一生懸命に
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