家がある。それを批評家の特権と心得または義務とさへ心得てゐるとすれば、止んぬる哉である。
これなどは、実際さう思はれるやうな作家にぶつかることがあるのだから、軽蔑のあまり我を忘れて叫んだと見れば、まあ許されないこともないが――批評家も人間なんだから――然し、許されないのは――彼等が苟くも一個の芸術家である以上――作品中の人物にまで、此の種の評価を下して、それが文芸批評だと思つてゐることである。
滑稽な話ぢやないか。「此の人物の性格には同情が持てない」だとか、「此の主人公はエゴイストだから嫌ひだ」とか、「あの妻君の方は普通のありふれた女ぢやないか」とか、「こんな男がゐたら社会に害毒を流すばかりだ」とか、「此の二人の男女は恋愛を遊戯視してゐる。怪《け》しからん」とかやれなんとか、かんとか、こんなことをいふ批評家の顔が一寸見たいと思ふが、扨《さて》合つて見ると、その男こそあんまり同情の持てない性格の持主であつたり、人並以上エゴイストであつたり、普通ありふれた男であつたり、社会に害毒を流しさうな男であつたり、恋愛を遊戯視してゐる男であつたりするのであらうから、なかなか面白い。
作中の人物を実在の人物の如く批難攻撃する点に於て、作者の人格を云々する以上にお目出度いものであるが、これは然し、当今文壇の常識的文芸観を語るものであらうと思はれる。
つまり、描かんとする或人物に対して作者の興味が如何に動くか、この動き方には、時代時代の流行といふか、型といふか、さう云つたほゞ一定の「プアン、ド、ヴュウ」があるやうである。
何時の時代に於ても、その興味は人生と深い交渉を有《も》つてゐなければといふことは、言葉そのものとして首肯できる。さて、その人生とは何ぞやである。議論が後戻りをしさうになつて来たが、いくら管《くだ》を巻くにしてもそれはあまりに巻き方が大きくなるから、一躍して結論に入れば、人生とは何を匿さう、この人生である。この人生と交渉を有つといふことは、必ずしも、「人生は斯の如く生くべし」といふ教訓を引き出すことではない。「人生には斯の如く生くる人物あり」で沢山ではないか。更に、腕さへ許せば「人生は斯の如く生くるも亦一興ならずや」と出てはどうか。
人物に対する興味の動き方、此興味があくまでも芸術家としての興味であつてはどうか。令嬢の木のぼりを叱るは親なり、隣の息子は指を
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