く「小さく」、悲劇作家は喜劇作者よりも「堂々として高尚らしく」、一個の魂を描く文学よりも、群集の心理を、社会の相を、人類の運命を、宇宙の神秘を取扱ふ文学により以上の「大問題」を感じ「大思想」を発見し、たゞそれだけの理由で、それが「偉大なる芸術」としてより以上の尊敬を受け、より以上「大きな価値」があるものゝ如く持て囃される傾きがある。古くとも帽子は尊く身につけずとも腰巻は卑しき類であらうと思はれる。
その半面には、いやに平凡ぶり、いやに大人ぶり、いやに苦労人ぶり、いやに「己を知つたかぶる」手合が多い。これはつまり、何んでもない顔をして「大きなこと」を云つてのけようといふ了見に違ひない。甚だ浅間しい。露骨な自己弁護に陥つて恐縮であるが――実はそんなに恐縮もしてゐないが――小生の書くものを評して、やれハイカラであるとか、気取つてゐるとか、甚だしきは、それ以外に何にもないとか、さういふ文句を耳にするが、さてさて、うるさいことである。ハイカラならハイカラでいやなら読まなければいゝ。気取つてゐるのが癪に触るなら、そつちを向いてゐればいゝぢやないか。誰もハイカラ代や気取り賃を出せとは云ふまいし、兎角作者に対して、あまり親切すぎるのがよくないのである。自分の兄弟かなにかなら、あゝハイカラでも困るとか、あゝ気取つてゐては嫁に来手があるまいとか、そんな心配もしなければなるまいが、そこは赤の他人ぢやないか。
此の間も何かで読んだが、或る人が或る作家のことを「まだ人間として頼りない気がする」と云つてゐた。その人の息子か娘婿でゞもあるのかと思つたら、さうでもないらしい。その作家がその人の処へ何か頼みにでも行つたのかと思つたら、さうでもない。実は、その作家の作品について話しをしてゐるのである。小生は撫然としてその作家の為めに悲んだ。かういふことは、公の席で云ふべきことだらうか。作品の批評をする為めに、作家の人物に触れる必要があつたら、芸術家としての素質を芸術家らしく云々するがいゝ。此人はその作家と別懇な間柄らしくもあるが、それならなほ更のことである。此の種の批評は、文学を俗化し、読者に不純な好奇心を与へ、芸術の真正な鑑賞を誤らしめるものである。
まだ、ひどい例がいくらもある。「此の作者は頭が悪い」とか、「人物がオツチヨコチヨイだ」とか、誠に聞くに堪へない暴言を平気で書き連らねてゐる批評
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