すわ。
一寿 転任かい?
悦子 ええ、まあ、都合によつては、さういふ形式になるかも知れないわ。
一寿 お前の志望でかい、それとも……。
悦子 ちよつと、その話は後にして、今日は、どうすんの?
一寿 (愛子の顔をみて)また、例の支那料理か?
愛子 坐るの困るわ、あたし……。それに、今日はゆつくりできないの、お茶に呼ばれてるから……。
一寿 何処のお茶?
愛子 大使館よ。二時にルネが迎へに来てくれることになつてるの。あたしに委せてくれない、今日は?
一寿 その方の用意は若干してあるがね。まあ、たまに御馳走になるのもよからう。だが、服はこれしかないんだが……。いや、お前さへよけりや、わしはかまはん。
愛子 この部屋、たまに掃除すんの?
一寿 なに、今起きたばかりなんだよ。珈琲もまだ沸かさにやならず……。
愛子 珈琲、もういいぢやないの。ねえ、いらないでせう、姉さん。
悦子 でも、御自慢なんだから、させておあげなさいよ。
一寿 (珈琲の道具を用意しながら)材料が材料だから、思ふやうには行かんさ。
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その間に、愛子は、寝台に近づき、姉の隣に腰をかける。
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愛子 (ぢつと、姉の横顔を見て)顔色がわるいわね。
悦子 あたし、今の学校よすことになつたの。
愛子 でも、よしたつきりぢやないんでせう。
悦子 それがね、愛ちやん、少し面倒なことが起つたの。聞いてくれる?
愛子 聞いてよければ……。
悦子 相変らずね。ほら、何時かのこと覚えてる? あんたが家を出るつて、怒つた時を。あたしが同情したのがわるいつて……、ぷりぷりしたぢやないの。
愛子 ああ、例の問題の時ね。
悦子 あのこと、あたしまだわからないんだけど、あんたが一人で苦しんだらうと思つて、一生懸命慰めるつもりだつたら、あべこべに御機嫌を損じちやつて、おまけに、当分絶交みたいなことになつたの、あれ、今でも不思議なのよ。
愛子 …………。
悦子 お互に秘密なんかないやうにつて、あの少し前、あたしが云ひ出したわね。あん時の気持、今も変つてないわ。だから、今度は、あたしの秘密を打明ける番なの。あんたのプライドが、何時かの問題であたしの前に傷けられたとすれば、今日は、あたしのプライドを、あんたの前で、踏みにじらうと思ふの……。それでアイコぢやないの。でも、あたしは、あんたのやうに、自分を信じることができないから、同情してくれればしてくれるだけ、うれしいと思ふわ。もちろん、他人からぢやなくつてよ。あんたからよ。妹のあんたからよ。あたしは今、眼の前が真つ暗なの。あんたにだつて、ああしろかうしろつていふことはできないかも知れないけど、とにかく、力をつけてよ。倒れさうになつたら、手をかしてよ。後生だから、希望があるうちは、その希望の方へあたしを向け直してよ……。
愛子 …………。
悦子 どう、約束してくれる? 云つても無駄ぢやないつてことを感じさせてくれなきや、あたし、勇気がでないわ。
愛子 とにかく話してみたら……? あたしで、出来るだけのことはするわ。ただ、その前に、これだけのことは云つとくけど、姉さんが重大だと思ふことを、あたしはそれほどに思はないかも知れないわよ。そん時、同情のしかたが足りないなんて云つちやいやよ。
一寿 (珈琲を珈琲つぎに入れながら)二人ともお代りはいらないか?
愛子 いらないわ。ぢや、云ひなさいよ。
悦子 頼りないなあ……。でも、思ひ切つて云ふわ――愛ちやんを悦ばすと思つて云ふわ。
愛子 (ぴくりと眉を動かす)
悦子 あたし、実は、学校のある男の教師と、三年前から、愛し合つてゐたの。むろん、周囲がうるさいから、絶対誰にも知れないやうに注意してたわ。それはまあ、うまく行つたの。
愛子 …………。
悦子 ところが、去年の夏頃から、ふつとした機会に、もう一人の男の教師と度々話をするやうになつて、別にそれはなんでもないんだけど、ほら、前の男が妙に気を廻しはじめたの。初めはただ、そんなこと弁解するのは馬鹿々々しいぐらゐに思つてたわ。嫉妬つて恐ろしいもんね。たうとうしまひに、人前であたしの方をにらみつけたり、二人きりになると、めそめそ泣いたりするやうになつて来て、いくらわけを云つても承知しないんでせう。こつちもうるさくなるわ、しまひに……。勝手にしろつていふ気になるわ。それで、その結果が、まつたく、思ひがけない方向へあたしを引つ張つてつたの……。それまで何でもなかつた相手と、冗談みたいにして離れられない関係ができちまつたのよ。今から思ふと、なんだつてそんな向ふ見ずなことができたらうつて気がするんだけど、もうしかたがないわ。あれで半年ぐらゐの間、その二人の男を、一方には飽くまでさうなつたことを打明けず、一方には、以前の男を棄てたやうに見せて、大胆つていふか、図々しいつていふか、まるで良心のない生活を続けて来たの。どうかしなけりや、どうかしなけりやと思ひながら、一日一日がたつてしまつたのね。でも、たうとう、来るものが来たと云つていいわ。その二人は、同時に、あたしから瞞されてゐたことを知つたわけよ。そして、一方ではもう、その噂が校長の耳にはいつてるの。一昨日、あたしは校長の前に呼ばれて、然るべく身の始末をするやうに云ひ渡されたの。校長は、そりやあたしを信用してたの。その信用が、職務の範囲を越えて、ある時は、個人的な親愛とまで感じられる程度だつたから、若しあたしさへその気になれば、これもどんなことで……と、内心不安に思ふやうなことさへあつたわ。その校長が、あたしに、さういふ宣告を下さなけりやならないんだから、随分皮肉ね。
一寿 さ、熱いうちにどうだ?
悦子 ええと、ああ、さうだわ……。将来を慎めば、今度のことは内密にして、何処か離れた土地へ、三人とも別々に転任させてもいいつて、校長は云つてくれたんだけど、男が二人とも、それは承知しないの。前の男は、かうなつたのは自分が悪いんだから、過ぎ去つたことは過ぎ去つたこととして、どうしても一緒に、これから二人で生活の建て直しをしようつて、きかないの。後の男は後の男で、自分の方にその権利があるつて譲らないから、あたしは、もう、はつきり自分の考へが云へなくなつてしまふぢやないの。一方はまだ二十五で、一方はもう……たしか三十だわ。二人を並べると、あたしの気持は、十分、前の男の方に傾いてゐることはわかつてるの。
愛子 若い方ね?
悦子 ええ……。でも、さういふ気持を別にしても、その方が正しいんぢやないか知ら……?
一寿 (自分の珈琲を飲み干し)おい、折角のが冷めちまふぢやないか。
愛子 (黙つて、卓子に近づき、珈琲茶碗を取り上げる)姉さん、それだけの話?
一寿 なにをお前たちは、こそこそ話してるんだ?
愛子 秘密の話よ。パパは聞かなくつていいの。(姉の方に近づく)
悦子 興味ない?
愛子 そこまでは事件の筋道ね。スキヤンダルになるかならないかは、姉さんの態度ひとつだわ。
悦子 どうすればいいの?
愛子 あたしならつていふ返事はできるけど、姉さんの場合は、さあ、どうか知ら?
悦子 これで二十八よ、あたしはもう……。どういふ意味でも、新しく出直すつてことが、女にはもうできない年になつてるのよ……。あんたの何時か言つた、勇気もお金も時間もない、今の場合を考へて頂戴……。なにが恐ろしいつて、あたしは、一人つきりになることよ。(涙を拭く)
愛子 (突然大声で笑ひ出す)
悦子 (キツとなり)どうして笑ふの?
愛子 ごめんなさい、つひ笑ひたくなつたの……。
悦子 いいわよ。笑ひたけりや笑ひなさいよ。やつぱりさうなんだわ……。あんたみたいな冷血に、なにを云つたつてわかるもんか! 今日限り、姉妹の縁を切るわよ。洋妾みたいな生活をして得意になつてたら大間違ひだわ。あんたには、心の悩みなんてものがないんでせう。男の顔がお金にみえて、毛皮の外套が幸福のシンボルなんでせう……。
一寿 また喧嘩をはじめたのか。月に一度、云ひ合ひをしに此処へ来るんなら、わしやもう、部屋を貸してやらんぞ。
愛子 姉さん……。何時かのことを思ひ出さない? あたしが、あんな口惜しい思ひをしてる時に、姉さんは、口で優しくあたしをなだめながら、心の中で、笑つてゐたぢやないの……。あたしが馬鹿に見えたんでせう? あたしが泥だらけになつて、それがうれしかつたんでせう……? だから、同情にならないとは云はないわ。それがあたしたちの同情よ。相手を慰める悦びに、人は酔ふことがあるのよ。姉さんは、それだつたのよ。それを有難がる相手もあつていいでせう。あたしはちつとも有難くないの。だから、あたしは、人にもそれをしないのよ。悪く思はないで頂戴……。
悦子 そんな理窟、聞きたくない。あたしは心から、あんたの不幸を悲しんであげたんだ。
愛子 悲しんでくれて、それがどうなつた? 人間の不幸が若し過ちから生れるもんなら、さういふ不幸を、先づ、笑ふのがほんとだわ。あたしはむろん、今、そんな意味で笑つたんぢやない。姉さんが、心の中で、あたしを笑つた、あの笑ひ方を、声に出してみせてあげたのよ。わかつて? おつしやる通り、アイコだわ。
一寿 あああ、いい加減によさないか? わしは腹がへつて来た。(さう云ひながら、室内を歩きまはる。喧嘩がすむのを何時もの通り待つてゐるのである)
悦子 ぢや、それで勘定はすんだわけね。序に、これからは、赤の他人になりませう。妹がゐると思ふから、あたしも一人になるのが淋しかつた。もう、今日限り会ふこともないでせう……。(起ち上り)お父さん……。あたし、また近いうちに出直して来るわ。
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悦子は、さう云ひながら、部屋を出て行く。
一寿と愛子とは、それを見送る。
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一寿 姉さんはどうしたんだ? なにを怒らしたんだ?
愛子 また素敵な仲直りをしたいもんだから、思ひ切り、腹を立てたふりをするのよ。パパは、姉さんの味方をしなきや駄目よ。それから、今日は、あたし一人でつまんないから、これで帰るわ。御馳走する予定で、これ持つて来たから置いてくわよ。(紙幣を卓子の上に投げ出す)
一寿 (慌てて)ええい、また、そんなことをする! わしは、それが嫌ひだつて云つてるぢやないか。持つて帰りなさい、持つて帰りなさい、そんなもの……。少しぐらゐ小遣が自由になるからつて、無駄使ひを覚えなさんな。
愛子 ぢや、これで、靴下でも買はうツと……。(紙幣をハンドバツクにしまひ)ぢや、さよなら……また、来月……。
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愛子は、ゆるゆる戸口から姿を消す。一寿は、その方は見ずに、上着を脱いで、戸棚からパンのカケラを取出し、チーズを片手につまんで、あちこちと歩きながら、代る代るそれを口に運ぶ。ラヂオの音楽が、この情景の底を皮肉に彩つて――
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[#地から5字上げ]――幕――
底本:「岸田國士全集6」岩波書店
1991(平成3)年5月10日発行
底本の親本:「現代戯曲 第二巻」河出書房
1940(昭和15)年9月17日発行
初出:「中央公論 第五十年第一号」
1935(昭和10)年1月1日発行
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2−67)と「≫」(非常に大きい、2−68)に代えて入力しました。
入力:kompass
校正:門田裕志
2007年1月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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