もある。話のしやうでは、以前は以前、今は今といふことぐらゐ解りさうなもんだと思ふ。そこは、呑み込んでかかりさへすりや、わしにも手心があるしな。知らん存ぜぬ一点張りでは、まづいぞ、こりや……。

[#ここから5字下げ]
沈黙。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
悦子  あたしが口を出しちやわるいけど、こないだもそこを云つたのよ。ひとりで苦しんでるのは損よ。
一寿  (悦子に)お前はやつぱり、あつちへ行つてなさい。

[#ここから5字下げ]
悦子は、更に、愛子の耳元で何か囁いた後、妙にいそいそとその場を立ち去る。
[#ここで字下げ終わり]

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一寿  そんなら、向ふが、かういふことを勘違ひしてるんだなと思ふやうなことがあつたら、それを云つてごらん。
愛子  …………。
一寿  こつちはそのつもりでなくつても、男の方で、いい気持になつてるかも知れんといふやうなことはないか?
愛子  (素つ気なく)さういふことなら、いくらだつてあるわ。
一寿  あるか、なるほど。ぢや、いちいち、挙げてみなさい。
愛子  (相変らず、人ごとのやうに)先づ、新宿で切符を受け取るとき――あの人がみんなのを買つてくれたの――そん時、あたし、その切符を受け取る拍子に、あの人の指を一緒につまんぢまつたの、はつと思つて、顔をあげたら、あの人、真つ赤になつて、なんべんもお辞儀してたわ。
一寿  (考へて)うむ……それから……?
愛子  電車から降りる時、あの人、網棚の上へのつけてあつたお弁当の包みを、ひとりで下ろさうとしてたから、あたし、何気なくそれを、ひとつひとつ受け取つてやつたのよ。すると、いちいち、すみません、すみませんつて勘定するみたいに云ふから、――すまないことないわつて、ただそれだけ云つたの。さうしたら泣きさうな顔して、あたしの眼、ぢいつと見てた。
一寿  (考へて)ふむ……それはそれだけだね?
愛子  ええ。それから、青梅電車の中で、ほかに人が少なかつたもんだから、みんなとてもはしやいで、歌を唄ふかと思ふと、お互に悪口の云ひ合ひをしたり、とても大変なの。あたしは、だまつて聞いてたんだけど、――一番なんとかはだあれだ――つていふ問題を一人が出すとあと四人が一緒に応へるつていふ、子供みたいな遊び、兄さんが発明した
前へ 次へ
全35ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング