れど、あそこにゐると、贅沢がしたくなくなるので、それが何よりですわ。自分の生活に、慾望を起さないといふ境遇は、外に考へられませんもの。毎日、貧乏な子供の家庭を訪ねて廻るのも、驕つた気持でするのとはまた別ですからね。こつちの懐をいためない程度で、さういふことをする慈善家たちと違つて、あたしは、有りつたけのものをみんな、洗ひざらひ放り出すんですの。一銭のお金でも、自分のためよりは、餓ゑてゐる人達のために使ふつていふのが、むづかしい理窟はぬきにして、今のあたしにとつて、生き甲斐みたいなもんですわ。
田所 生れつきですか?
悦子 どうせ気まぐれなんだから……。子供のころの、なんとなく薄暗い生活が、かういふ人間を作つたんでせう。やつぱり、お弁当のおかずで卑下をした記憶が、どうしても抜けきらないからよ。
田所 初郎君からもよくそんなことを聞かされましたよ。お父さんのお留守中でせう。でも、あなた方御|同胞《きやうだい》三人は、性格的に、まるで極端と極端のやうですね。
悦子 兄は暢気でしたね。
田所 暢気つていふのか、とぼけてるつていふのか、平気で思ひ切つたことをやりましたよ。これは内証だけれど、船で泥棒をした苦力を南京袋へ押し込んで、海ん中へぶち込んぢやつたりしてね。
悦子 え? そして……?
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その時、一寿が現はれる。
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一寿 別々に話を聞いたんでは、どうもよくわからんが、……(悦子のゐるのに気づき)あ、お前は遠慮した方がよからう。(悦子の姿が消えるのを待つて)さつきの君の話は、たしかなんだらうね。当人は、君のことを忘れてはをらん。これは、現に当人が前言を取消したんだから安心し給へ。ところで、君との関係だが、君の云ふやうな約束に類したことは、絶対にしてをらんと云ひ張るんだがね。その点は、何か君の勘違ひぢやないか? 或は、思ひ過しとでも云ふか。
田所 (苦笑して)さうすると、僕が、余つぽど間抜けな男になるわけですが、それを事実について申上げることは、なんとしても忍びません。自分自身のために忍びないんです。しかし、あなたの公平な御判断で、愛子さんが、僕に会ふことを拒まれる点の理由を突きとめていただきたいもんです。
一寿 会ひたくないから会はんといふ理由も、紳士に対する礼
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