人間は実に稀であると思ひます。然らば、それがどうしてさういふ左翼思想に趨つたか。
大体われわれは小学校を出る時分、昔の高等小学校を了へるくらゐの年輩になりますと、所謂人間の理想といふやうなものに目覚めて行く。即ち人間は一体どういふ風に生きるのが一番立派であるか、さういふ一つの目標がほゞ頭の中に出来かゝつて、それがこの時分から段々明確になつて行くわけですが、この頃に人間性といふものゝ貴さといふか、或は魅力といふか、さういふものに非常に心が惹かれるやうになる。さうしてそのやうな気持のなかにどういふものがあるかといふと、それは今日日本でも倫理で教へてゐることで、所謂真善美といふやうな三つの要素に対する極めて純真な憧憬であります。これが中等学校に行く頃、或は中等学校へ行かない者が家庭の仕事を手伝ひ、若しくは商店、工場等に働きに行くといふ頃になつて、自分の生活の中にこの真善美といふものを一体どういふ風にうち樹てるかといふことに就て迷ひだす。といふのは、要するにその実現性、可能性といふものを殆ど見失ふわけです。つまり、現実に社会を見、自分の周囲を見て、自分の接するいろいろな事物、人間といふものゝ実情に大きな絶望感をもつやうになるものが、全部とは申しませぬが、やゝ多数を占めるのではないかと思ひます。そこでさういふ場合に、非常にいゝ指導者がゐてさういふ少年たちの心のなかの苦悶を拭つてやるか、それともそこに希望を失はないで前途に向つて邁進する強靭な精神を当人がもつてゐればよろしいが、さもなければそこで襲はれた絶望感に依つて人間が非常に功利的になる。そして結局金持にならう、或はたゞ出世をしようといふ風に考へて、何かしら、社会といふものゝ理想から遠いものに対する精神的な復讐でもするやうな気持になる。無論その人間の性情に依つていろいろに違ひますけれども、先づ中等学校を了へる頃、いろいろな書物を読み、或はいろいろな教養を身につけるに従つて、社会に対する批判力が出来、社会が真からも、善からも、美からも非常な隔りがあるといふ現実の様相に対して一層自分たちの心を苦しめ始めます。これが所謂煩悶時代であります。この時に日本といふものゝ値打に就てさういふ青年たちに十分信頼の念を吹き込んで、彼等に希望を与へる、さういふいゝ指導者があればよろしいが、さうでない場合はどうか。その時に一番痛切に教へられるもの
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