ましたけれども、実に無関心だつたと思ひます。議会でも、さういふ問題が出たことは絶対にない。偶々議会でさういふ文化とか、文学とか、或は芸術とかいふ問題が出ると、議場に嘲笑が起るといふ現象をたびたび耳にするのですが、つまりさういふことを云ふ議員は非常に野暮な議員だといふ風に考へられる。かういふやうなことが青年の思想には非常に鋭く響くわけです。幸にしてかういふ大政翼賛運動が起る新たな体制になつて、われわれが協力努力すれば、社会といふものはもつと理想に近いものになる途がついた、といふことが云へると思ひます。

 転向者の待遇といふ問題については、当人が既に十分日本人であるといふ自覚をもつてゐるものならば、これは是非とも協力させる場所を与へなければならないし、全国民の力を一つに合せやうといふ、翼賛会の運動の建前から云つても、さういふ人々を積極的に抱擁して行かなければならぬものと私は思つてをります。そして翼賛会自身が大きな自信をもち、国民の具体的な支持の下に軌道に乗つて来れば、勿論さういふ人たちを採用できるのぢやないかと思つてをります。さういふ時期の来るのを待ち、また早く来ることに努力してみたいと思つてをります。

 日本固有の文化と西洋の文化といふ問題ですが、如何なる文化にしろそれが若し不健全なものならば、教養として身につける時には、やはりその教養自体が不健全なものになる。今日本に多いのは文化中毒者だと思ひます。所謂不健全な文化を身につけて、それが文化的教養であると思つてゐる。さういふ教養を文化的だと思つてゐること自体が中毒症状である。かういふのが今の文化人に非常に多いやうに思ひます。西洋のものを身につけるにしても、つける人間に依つては益にもなり、或は害にもなる。西洋かぶれといふ現象はその後者に属します。
 私は翼賛会にはひる前に、文部省に対して長い注文([#ここから割り注]「一国民としての希望」を指す[#ここで割り注終わり])を書いたことがあるのですが、これを極く簡単に申しますと、偶然にも有馬さんの翼賛会実践綱領解説の中に、「教育の功利性を排し」といふ文句がある、恰度それに当るのです。私はかねがね考へてをつたことでありますが、所謂エライ人物と立派な人間といふものゝ区別が非常に曖昧になつてゐる。それで少年たちが中学にはひる頃に、自分は一体エライ人物になるのか、立派な人間になる
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