新文化建設の方向
岸田國士
私はこの度、大政翼賛会文化部の仕事を引受けることになつたのであるが、引受けてみて、さて驚いたことは、「文化」といふ言葉がそれぞれの方面でいかに違つた意味にとられてゐるかといふことである。
従つて、お前の文化部では、いつたい何をするのかといふ質問を頻々と受ける。或る人は文化政策を樹てろと云つておどかす。或る人は教育の根本的刷新に乗り出せといふ難題をもちかける。またある人はもつといゝ映画を作れなどと冗談を云ふ。
これは少々お門違ひで、そんなことは、私の知つたことぢやないとは云へないが、しかし、さういふ責任者はちやんとほかにあるのであつて、私がまづやらなければならないことは、恐らくそれとは別のことなのである。
翼賛会自体の目的を考へても、これは明かに政府のやるべきことをやるのでもなく、また、民間の手でできることをわざわざお役所面をしてやらうといふわけでもない。いはゞ、政府がやらうとしても今のまゝの制度ではできず、国民自身やるべきことで、現在の事情ではやりにくいところを、なんとかしてこゝで、双方の力を併せ、政府にも無理をしてやつてもらひ、国民も新しい気持になつてやるべきことだけはやらうといふ、その出発点にわれわれはあるのである。
してみれば、翼賛会といふものは、今まで誰もやらなかつたこと、或は少くとも十分にはやれなかつたことを、こゝで、死力をつくしてできるやうに仕向けて行くことが第一の仕事である。
文化の問題にしても、国家に文化政策といふものがないわけではない。学校を建て、博物館を作り、風致美についての関心も払ひ、社会事業には補助金を与へ、国民の体位の向上にも最近は非常な注意を向けてゐるのである。これことごとく文化政策ならざるはなしであるが、しかし、なんとなく、今日までの政治には所謂文化性が稀薄であつたといふ感じがする。これはなぜかと云へば、文化を奨励しなかつたとか、演劇や映画の検閲に確乎たる方針がなかつたとかいふことばかりではない。寧ろさういふことよりも、国民生活の実体を支配する政治力といふものが、文化の真の姿を反映する精神的高さに欠けるところがあつたためだと思はれる。精神的な高さとは、これまた、徒らに、精神主義を標榜することではなく、修身講話と大臣の声明とを混合することでもない。
ところで、こんなことを、今更、われわれはなんと
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