云つてもしかたがないのである。被治者としての国民は、自分たちの生活を豊富にするやうな政治を望んでゐるのであるけれども、国民の一人一人が、自分で先づ起ち上らなければならないといふ今日の時代に於ては、政治に欠けてゐるものを、国民自らの手で作り出さなければならない。それが唯一の活路である。
 文化の面に於ては、幸ひに、物資の欠乏がそれほど影響力をもたないと私は考へる。紙が足りないで本が沢山刷れないと云つても、一冊の本を大勢が読むといふ手もある。フイルムの配給が十分でなく、映画の製作が不便だと云つても、それなら、つまらぬ映画を作らなければそれですみさうである。洋画家はキヤンバスの払底に苦しんでゐるが、これも、ちよつと頭をひねれば、苦境打開の道はないことはない。それよりも、われわれとしては、現代の日本文化が、どんな状態におかれてゐるか、これから先どうなるであらうかといふことを考へると、問題は決してそんなところにはないのである。

 それならば、問題はどこにあるかといふと、先づわれわれは今日まで、人間として、また、一国民として、なし得ることをすべてなし得たかといふ反省をしてみることである。
 われわれは、実に同胞に対して冷淡であつた。われわれは、自分の生活といふものを恐ろしく粗末にしてゐた。われわれはまた、民族の伝統を軽んじ、しかも因襲と戦ふ勇気がなかつたのである。
 殊に、われわれは、秩序の美しさを忘れ、隣人との協力を拒み、拗ねることが賢いことゝ思ひ込む癖を身につけた。
 文化人と称する専門家は、自分の専門の領域で、ほかの社会では通用しない仁義と方言をとり交し、しかも、相助ける代りに、相しりぞけてゐる事実が多々ある。
 学問も芸術も、これでは伸びるわけがなく、日常生活も、これでは豊かになる道理がない。
 われわれは、さう云へば、まつたく、実力以下のことしかしてゐない国民になつてしまつてゐるのである。
 本学(慶応義塾)の井汲教授は私を本日こゝへ引つ張りだしに来た時、私にかういふ話をして聞かせたのである。
 巴里の図書館へ日本の一留学生が訪ねて来て、研究のためだから筆写本の写真を撮らせて貰ひたいと申込んだ。すると図書館の係りの者が、「日本ではいつたいこの筆写本の写真が何枚いるのだ」と尋ねたさうである。これで、その写真を撮つて行つた日本の先生が既に何人かゐたことがわかつたわけであ
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