たのに、その解散は已むを得ないにしても、個々の俳優が十年舞台を踏んだ揚句、まだ遺憾ながら、その「芸」によつて作品を活かし、見物を魅了する底の修業は積んでゐないやうに思ふ。
 これは、「築地」に限らず、これまでの新劇といふものが、俳優を人形扱ひにしすぎた結果である。演出者万能主義の余弊ともいへるが、要するに、俳優が自分の職分なり、領域なりを自覚して、「人形扱ひ」を受けることを不満に感じ出せばいいのである。十分な芸術的教養と、新しい演劇的感覚をもつてゐさへすれば、俳優は、いくら勝手な真似をしてもかまはないのである。演出者なるものの指図を受けなければ、調子ひとつ張れず、お辞儀ひとつできないといふ有様では、芝居が面白くなる筈はないのである。
 一方、戯曲の生産も亦、この二三年来、頓に萎靡沈滞してゐたことは周知の事実である。この現象についても、私は、既に云ふべきことを云ひ尽した。それ故、ここでこれを繰り返す気はないが、今になつて考へれば、それも、例の周期説に従ふとすると、極めて当り前のことで、それはさういふ期間だつたのである。
 果して、今、また、新しい機運が動いて来た。いつからともなく、さういふ気配が感じられるやうになつたのだ。何もかも行き詰つたと思つてゐるところへ、最近ぼつぼつ若々しい演劇風景が眼に映り出した。曰く、新劇団の旗揚げ、新劇雑誌の創刊、新鋭戯曲家の擡頭……。
 新劇団の中で目星いものは、テアトル・コメディイと称する純素人劇団と、友田夫妻を中心とする築地座である。前者は、仏蘭西劇のみを上演目録に選ぶ特殊な存在であるが、これは、二つの見方から、私は興味をつないでゐる。第一は従来の新劇は、どちらかといふと、北欧殊に独逸流の演劇理論と舞台的臭味を基調とするものであつた関係上、仏蘭西の戯曲は、そのままの味で紹介される機会が少く、更に、俳優の側からいつても、仏蘭西風の演劇的伝統を素直に享け容れ得なかつたために、翻訳劇としても、どこか一方に偏した傾向が強く現はれてゐたのである。それをこの劇団が将来、多少とも、未墾の土地へ鍬を入れるといふことは結構なことに違ひない。第二はこれまでの新劇団が好んで西洋の先駆的な或は殊更、文学的価値を標準にした戯曲を選んでゐたのに反して、この劇団は、好んで仏蘭西のブウルヴァアル劇を上演してゐることである。これは、一方からいへば危険なことであるが、
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