と同じことで、偶々、「新劇運動」の到来によつて、あるものは、上演の機会を得るといふだけだ。劇壇の好事家並びに清教徒的演劇愛好者が、「参考のために」或は「純粋な芸術的欲求」を充たすためにこの種の舞台を撰ぶことになるのである。
ところが今日までの新劇運動は、西洋のいろいろの時代に、それぞれの目的と機運とによつて起つた運動の「型」を無批判に受け容れて、実は甚だ「見た眼に面白くない」芝居をしてゐながら、これこそ「歌舞伎劇、新派劇に代るものだ」と称へ、この新しい芝居が、世に容れられない筈はないと考へた。
それは、大間違ひである。たとへ、イプセンのものをやり、チエホフのものをやつてもよろしいから、「芝居は戯曲の価値や演出の工夫で見せるものだ」といふ西洋だけに通用する理窟に信頼せず、現在の日本では、「俳優の芸」に於いて、新時代の演劇に応はしい一つの目標を発見し、歌舞伎と新派の「芸」に向つて、革新的の意気を見せるべきであつた。そして、その「芸」なるものは、万一、芸術的な立場から、さほど高く評価されなくても、本質に於いて「現代的」であれば、即ち、現代人の生活を写すに適してゐさへすれば、それは立派に、一般観客の好奇心を引くに足り、ここから、新らしい舞台の魅力が湧くのである。従つて、さういふ資格を具へた俳優なら、たとへ、ある時機に参加した運動がそのまま消滅しても、彼等だけは生き残つて、現代大衆の欲するものを与へ得るのである。
彼等は、そこで初めて、歌舞伎劇と新派とに有利な戦ひを挑み得るのである。
なるほど、既成劇壇に挑戦するといふ意味は、芸術的純粋さを争ふといふこともその一つではあらうが、それは争つてみなくてもわかつてゐる。争ふ必要のあることは、寧ろ、既成演劇の独占する地盤である。観客を楽しませ得る程度である。「よき観客」を引き得る力の問題である。
沢田正二郎は、ある意味で既成劇壇への反逆を企てたやうに見えたが、あの程度のものは、芸術的に見て、新しい演技とはいへない。在来の旧劇新派の型から「完成味」を引いて、煽動性を加へたやうな誤魔化しが大部分だつた。
僅に望みをかけてゐた築地小劇場も、われわれが求めてゐたものを遂に与へずにしまつた。この劇団こそは、所謂「新劇運動」の役割を終へた後、堂々とかの既成劇壇の陣営に肉薄してわが国の現代劇を遅まきながら樹立してくれるであらうと思つてゐ
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