新劇復興の兆
岸田國士
文学の上では、絶えず思想的な波の起伏が、直接にその時代の作家を――、殊に若いヂェネレエションを刺激して、あらゆる面での先駆的な運動となつて現れるのであるが、演劇の方面では、今日までのところ、所謂革新派と見做すべき一群の擡頭は、常に若干年数の周期を経て繰り返されてゐるやうである。
この現象は、勿論、説明をつけてつけられないこともないが、要するに、演劇の実際運動といふものは、ややお祭りのやうなもので、一人が騒いでもなんにもならないからである。それに、何よりも、世間がそれを「待つてゐる」時機にぶつからなければならぬ。さういふ時機といふものは、その以前に現はれた運動の余燼がほぼ消え終つてからどこからともなく、じわじわと、近づいて来るのである。
そして、今、わが劇壇は、またさういふ時機にぶつからうとしてゐる。
ところで、私は、日本の新劇運動が、未だ嘗て、その目標とするところに近づき得なかつた最大の原因を、種々な点に発見し、一再ならずその意見を述べたつもりである。それはつまり、在来の「新劇運動」が、その新興的な意気にも拘らず、例外なく、表面の形式に囚はれ、少くとも、その材料と必要な基礎工事に注意を払はなかつたところにあると断言し得るのである。
しかしながら、さういふ結果は、必ずしも当事者の無能怠慢から生れたのではなく、畢竟、日本に於ける「新劇運動」の方向が、西洋に於けるそれと、その軌を一つにしてはならぬといふ原則に想ひ当らなかつたからであらうと思ふ。
西洋に於ける新劇運動は、この運動を指導する精神が、先づ演劇の伝統に対して、著るしく肯定的であり、その時代の商業劇場乃至既成作家が、十分観客一般の求むるところを与へつつあることを一応承認してゐるのである。しかも、それのみを以て満足しない一部「選ばれたる人々」のための、純粋にして且新鮮な舞台は、次のヂェネレエションの手によつてのみ築き上げられるといふ信念に基いて、その気勢を挙げるのであるから、いはば、多少の幼推さや、無鉄砲さや、貧弱さは、観客の方で我慢もし、「これはこれでいいのだ」といふことにしてくれるのである。が、それをもう少し「本物」にしようと思へば、既成劇壇の応援をさへ求めることができる。現に、自由劇場でも、モスコウ芸術座でも、ヴィユウ・コロンビエでも、既成俳優が続々これに参加して、彼等も亦
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