ることは誰の罪でありませう。
これはまことに、日本語の罪だと云つてもよろしいのですが、さういふ言葉を無批判に通用させてゐたわれわれ自身の罪も半分はあるんぢやないかと思ひます。
かういふところに、抑も、お互は、想像にあまる隔たりを感じさせられてゐるやうです。
申すまでもなく、演劇の革新運動には、様々な目標がありませう。日本の新劇も亦、その意味で、様々な道を辿つたと云へますが、ここにひとつ、われわれは過去の歴史と、今日の情勢に鑑みて、将来、それぞれの目標に到る道が、実は、ある一点から岐れてゐるのであつて、その手前に、ただ一つ、或は、大同小異の目標がおかれてあり、そこを通らなければ、何れの終点にも達し得られないのだといふ事実を知つたのであります。つまり、われわれは、ある地点まで臂を接し或は腕を組み合はなければ通過できない道のあることを発見したのであります。
いや、しかし、さういふことを、まだ誰も云つてをりません。少くとも、公然とは云つてをりません。的確には云つてをりません。私も亦、その一人であります。
ただ、一つ、例の村山知義氏等の提唱による劇団の大同団結説とその実行運動が、幾分こ
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