の原因は、決して、めいめいの芸術論に、それぞれ相容れないものがあるといふ、そんなところにあるのではありません。要するに、芸術家は孤独であるといふ悲壮なプライドが、あまりに今日までのわれわれを支配し、それよりも、日本の新劇界は、芸術家を育て上げるに適した土壌であるかどうかをやや忘れてゐたところにあるのではないかと、私は考へます。言ひ換へれば、今日までのわれわれは、スタンドをもたない競技者の形であります。同一のコンディションで勝負を争ふことができない状態でありました。
まだ少し、云ひ方が足りないやうです。
元来新劇といふ言葉の意味についてさへ、われわれは共通の観念をもつてゐないのではないでせうか。ある者は、歌舞伎劇でも新派劇でもない「新しい国劇」の意に用ゐてゐるでせう。ある者は、西洋近代劇の影響とその移植から出発した演劇の先駆的傾向と解してゐるでせう。またあるものは、興行資本の手から独立して、自ら大衆のうちに観客層を開拓しつつある演劇行動の意をも含めてゐるでせう。むろんそれはそれでよろしいのでありますが、その何れを目指して一つの新劇理論が提唱されてゐるかが、往々、曖昧であり、不徹底であ
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