み出さうとかいふ努力はしてゐないと思ふ。出し物の選択も、ただ、受けさうで、やり易くて、配役の都合がついて、その上、劇団の頭脳に応じて、芸術的に優れてゐると思ふものをなるだけやるやうにしてゐるだけだと思ふ。それゆゑ、劇団の目標は、プライドを傷けない程度で、職業的にならうとしてゐる。つまり、ある時期に於けるある種の作家の態度と同じであります。さういふ新劇団は、しかし、その態度の故に非難されてはならないと思ふのです。なぜなら、今日、それらの新劇団の指導部は、理論家の手から俳優の手に遷りつつあるからです。俳優は、作家でなくてもよろしい。出版者であればいいのです。先駆的な新劇運動もいつかはまた起るでせうが、現在の新劇の歩みを、それが若し、方法をさへ誤らなければ、極く自然なものと見てゐます。それについて御意見を?

一、演劇雑誌を中心とするグルウプのやうなものがあります。それぞれのグルウプは、それぞれの芸術的主張をもつてゐますが、何れも、今日では一つの芸術的流派と称し得べきやうなものではなく、また、思想的にある異つたイデオロギイを振りかざしてゐるわけでもありません。従つて、どの雑誌に誰が書いても、かまはないくらゐのもので、その点、同人雑誌に近いのでありますが、なにしろ、今日の劇壇は、御承知の通り、文壇には絶縁状態であります。これがいいか悪いかは別として、文学の方なら、同人雑誌同士が知らん顔をし合つてゐても、文壇一般がこれに注意を向け、また、その中から優れたものを拾ひ上げることを怠りませんが、演劇の方面、殊に新劇の畑では、各雑誌によるグルウプ同士が、徒らに、揚足取りをしたり、軽蔑し合つたりしてゐては、誰を相手に物を云へばいいのでせう。私なども、時によると、自分に最も近い演劇雑誌に何か書かして貰ふ時、これを読んでくれるのは、その雑誌の同人諸君だけではないかと思ふことがあります。そしてまた、同時に、自分と関係の遠い演劇雑諺の中からは、常に自分の目指してゐる仕事が、全く今日の劇壇にとつてなんの意味もなさないやうな、あるよそよそしい空気を感じるのです。
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 勿論、作品や研究などでは、大に注意を惹くに足るものがあります。ところが、さういふ印象の告白は、わざとらしくてできないやうな障壁を、その雑誌の色彩のうちに感じるのです。
 これは実に困つたことであると思ひます。必
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