。共産主義の思想と雖も、トルストイの如き人物が説いてこそ「宣伝」にもなれ、お互ひが、如何に大声叱呼しても、それは、ただ、「自己の宣伝」に終るのみである。「自己宣伝文学」といふならわかる。然らずんば、単に衆愚を対手とする「煽動文学」たるに甘じるがいい。ただ惜むらくは彼等の中に、二三の才能の優れた作家がゐて、その芸術的才能を動もすればその「目的」のために酷使し、磨滅せしめてゐることである。
 私は、共産主義が、彼等の手段より、もつと巧妙に、もつと有効に、もつと正々堂々と「宣伝」されつつある事実を知つてゐる。そして、その「宣伝者」は、その「文学」に「共産主義の色」をつけなくてもすむのである。あらゆる「優れたる文学者」は、常にその優れた芸術のみによつて、「革命」への秘密の導火線を努めてゐる――優れた科学者が、常に社会を変形しつつあると同様に。アインシュタインを、長岡半太郎を、ブレリオを、パストゥウルを、誰かブウルジュアジイの走狗と呼ぶものぞ。況んや、労働組合に加入せざる靴屋の一職工が、一々自ら造るところの靴に、「革命」なる焼印を捺さずとも、いつの日か決然と起つて、彼等の指揮下に馳せ参じないと保
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