、これが、
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二、既成作家及びその後継者一派である。シェイクスピイヤより、イプセン、ストリンドベリイ、さてはチエホフ、ブリュウ、マアテルランクなどを師と仰ぎ、オニイルに感心し、ルノルマンを褒め、ルナアルを新しがり、アンドリェエフを一寸真似る手合である。この一派は、近代派が攻撃するほど、「どうにもならない」連中ばかりではなく、勉強次第では、オニイルやルノルマンぐらゐまでなら漕ぎつけ得る才能を恵まれてゐるものもないではない。それくらゐになつたつて何にもならないと云へばそれまでであるが、私は、世人と共に、やはり、この一派に最も期待をかける。何となれば、近代主義も、畢竟、しつかりした基礎の上に築かれなければならぬと信じるからである。写実主義、新浪漫主義、象徴主義、これらの諸流派は、既成文学として排し去るためには、まだ、わが国に於てはあまりに幼稚である。他の部門は兎に角、演劇に於ては、殊に戯曲に於ては、なほ、これらの畑に、本当の果実を実らさなければならない。
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もう一つ違つた分類に従へば、これは近頃、問題視されてゐる
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一、プロレタリア一派。即ち、共産主義を奉ずる青年作家の一群である。この一派は、文学的流派と呼ぶことはできないが、兎に角、文壇的に擡頭しつつある一勢力である。彼等は文学を以て、共産主義宣伝の手段にすぎずとなす点に、特色がある。従つて、戯曲も、一つの思想的傾向に色づけられ、演劇も、芸術である前に「運動」でなければならないと主張する。甚だ簡単明瞭であるから、議論の余地はないのであるが、ただそれだけならいい。彼等は、共産主義的思想を露骨に掲げない作品、ブウルジュワ階級に対する呪咀、怨嗟、罵詈を根柢としない戯曲を「一文の価値」なきものの如く批評し、引いて、さういふ作家を仇敵の如く、人非人の如く取扱ふに至つて、私は、聊かその了見の狭きに驚くのである。
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凡そ、文学の使命といふものは限られてゐる。それが如何なる思想を含んでゐようと、その思想のために人は文学を愛しはせぬ。まして、その思想に同化されはせぬ。なるほど、トルストイの思想は若干の共鳴者を出しはしたが、それは彼が、優れた芸術家であつたと同時に、偉大な人格を背景としてゐたからである
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