ば、「詩」はいらぬといふわけではあるまいし、「人生的主義」を伝へるために、最も「言葉の効果」に敏感な神経を働かせればよいのである。が、双方は、何れもその主張に於て、自ら恃むところを、強調するのは已むを得まい。
 北欧系は、「人生に正面からぶつかる」ことが文学の本道なりと云ひ、南欧系は、別にそんなことは何とも云はぬが、内心、「人生の脚を掬つ」たり、「睾丸をつかむ」ぐらゐ平気だと考へてゐるらしい。どうかすると、「人生の脇の下をくすぐつて」大いに悦に入ることもある。これが北欧系の気に入らぬ点で、「それは相撲の手ではない」と云つて腹を立てるのである。南欧系は、とぼけて、おや、「おれは相撲を取つてゐるつもりではなかつたが」と、苦笑するなど、甚だ意志の疎通を欠く次第である。

 これはまた別の分類法であるが、前述の二傾向に関係なく、特別の名で呼び得る一派がある。
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一、近代主義一派。これは、云ふまでもなく、未来派、表現派、ダダイズム、構成派などの芸術的新傾向の追従者で、多くは北欧系に属する作家であるが、もうそろそろ、南欧系の中から、例へば、コクトオやリイヌの亜流の如きものが出て来てもよささうなものである。
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 未来派、ダダイズムなどの傾向を取り入れた戯曲は、まだ日本に出て来ないやうであるが、表現派、構成派などの名を冠した、一寸信用のでき兼ねる戯曲が近頃ちよいちよい現はれる。この一派は、勿論、既成美学の破壊、従つて、在来の演劇の否定に進みつつあるのであるから、普通、筋道の通つた戯曲や演劇は、彼等から軽蔑され、敵視されてゐる。ここに於て、北欧系の作家中錚々たる人々でさへ、彼等の前では大きな顔ができないのである。その台詞の如きも、例へば「お面だ、お小手だ、お胴だ、そら、お突だ!」といふやうな猛烈な掛声の連続であるから、さすが「力」の作家たちも、たぢたぢである。然しながら、これらの傾向は、何も、恐るるに当らない。沈滞萎靡した末流文学に、一脈の活気を与へるべく生れた注射文学に外ならない。少し痛くても我慢するより外はない。効き目はいつか現はれる。痛い時は、まだ効いてやしない。
 この近代主義諸傾向を尻目にかけて、しかも実は、密かに「効くなら一本刺してもらはうか」と思案しながら、それほどでもあるまいと落ちつきを見せてゐる一派
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