。共産主義の思想と雖も、トルストイの如き人物が説いてこそ「宣伝」にもなれ、お互ひが、如何に大声叱呼しても、それは、ただ、「自己の宣伝」に終るのみである。「自己宣伝文学」といふならわかる。然らずんば、単に衆愚を対手とする「煽動文学」たるに甘じるがいい。ただ惜むらくは彼等の中に、二三の才能の優れた作家がゐて、その芸術的才能を動もすればその「目的」のために酷使し、磨滅せしめてゐることである。
 私は、共産主義が、彼等の手段より、もつと巧妙に、もつと有効に、もつと正々堂々と「宣伝」されつつある事実を知つてゐる。そして、その「宣伝者」は、その「文学」に「共産主義の色」をつけなくてもすむのである。あらゆる「優れたる文学者」は、常にその優れた芸術のみによつて、「革命」への秘密の導火線を努めてゐる――優れた科学者が、常に社会を変形しつつあると同様に。アインシュタインを、長岡半太郎を、ブレリオを、パストゥウルを、誰かブウルジュアジイの走狗と呼ぶものぞ。況んや、労働組合に加入せざる靴屋の一職工が、一々自ら造るところの靴に、「革命」なる焼印を捺さずとも、いつの日か決然と起つて、彼等の指揮下に馳せ参じないと保証できるか。
 彼等の仇敵視する
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二、ブウルジュワ作家一派。その中に、彼等の最も信頼すべき味方を発見する日があるであらうと同時に、その思想といひ、その生活といひ、その趣味といひ、一から十までブウルジュワ的な作家が幾人かあることはある。それらの作家は、その作品の中で、その思想を暴露し、その生活を語り、その趣味を表はしてゐる。彼等は思想的に、ブウルジュアジイの弱点を擁護する反動的態度を明示してはゐないが、所謂「現代を呼吸せざる」作家の通弊として、時代の歩みに鈍感であり、「幸福」の観念にわれわれと相通じないものがある。道徳の仮面を着た「獣」であるのは已むを得ない。この種の作家は、今や多く新劇界から忘れられようとしてゐるから、さまで顧慮するに足らぬ。
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 これ以外に、更に分類のし方もあると思ふが、これら様々の傾向から生れる作品、舞台に接して、その優劣を批判し、好悪を定め、取捨選択を行ふのは世人の勝手である。単に無責任な泥の塗り合ひによつて、その何れにも幻滅を感じない用意が必要である。



底本:「岸田國士全集20」岩波書店
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