とは早計であるが、今は、僕の理論を実行するものとしての話である。それはさうと、稽古の方法までこの機会に説明することはできないけれど、要するに今のやうな有様では、いつまでたつても「新しい日本劇」は生れて来ないと云ふまでである。
「そんなことはとつくの昔、百も承知である。やらうと思つてもできないだけだ」と、捨台詞を投げ付ける人もあるだらう。「金がなければ芝居はできない」とは、これまで新劇運動に絶望した人の合言葉である。然しこれまで、新劇運動を起した人の大部分は、現に金が無くても芝居をした人なのである。そして金が無かつたから、その運動は無意義であつたかと云ふと、決してさうではなかつたのである。
 こんなことを云ふのは余計なやうであるが、「そんなら自分でやつたらどうだ」と、変に皮肉る人が無いとも限らないから断つておくが、僕は実際やりたくて堪らないのである。悲しい哉、芝居といふものには相手が要る。相手と云ふよりも相棒が要る。やかましく云へば同志が要るのである。人にやれと云ふのではない。然しながら、これまた誰とでも一緒にやればいい訳のものではない。僕は先づ機会ある毎に自分の意見を発表し、有力な共鳴
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