を満足させなければならない。
 そこで、第一の問題は翻訳である。原語のまま上演することができれば一番よいのであるが、色々の事情でそれが許されないから翻訳をするのである。してみれば、翻訳の理想は云ふまでもなく、原語の解らない人にでも、その翻訳を通して、原語の解る人が原語を通して味ひ得るやうな味を伝へることである。勿論理想に於てである。記号としての言葉は、まあある程度までそれができるとしても、いよいよ演出するといふ段になると、先づ俳優の扮装である。日本人がどう化けても西洋人には見えない。次に、動作と表情である。それこそ西洋人の真似はできるかもしれないが、すつかり西洋人らしくなり切ることは、特別の人間でない限り不可能である。そこで、扮装も動作も表情も、ある程度まで「翻訳」する必要が生じて来る。言葉の方は適当な訳語が見つからなければなんとか説明で誤魔化しもつくが、扮装、殊に動作や表情になると、さうは行かない。言葉の翻訳には幸ひ翻案と区別される一線を設け得るが、動作や表情の翻訳は、多くの場合翻案になつてしまふ。その代り、動作や表情は、翻訳をしなくても「原語」のまま通用する場合が可なり多い。だんだ
前へ 次へ
全13ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング