ん多くなりつつある。
 ある女が自分の不幸な身の上を物語るとする。西洋の女はこの場合、決して笑顔を作らない。日本の女は、大抵笑顔を作る。これが翻訳劇の場合だとどうなるか。笑顔を作れば、それは翻訳ではなくて翻案になるのである。詮じつめれば外国劇をかういふ風に演出することが、果して適当であるかどうかといふことになる。少くとも、かういふ点まで考慮に加ふべきではないか。
 前に述べた外国劇としての興味は、多少でも殺がれることになる。それはまあよいとしても、その女の性格や心理に大きな隔りが生じる。それが作品全体に好ましい結果を齎らさないことは明かである。それが若し、全体がこの流儀に統一され調和されてゐるならまだよいが、さうすると今度は、原作の「味」が出ないにきまつてゐる。つまり「別物」になる。それでもいいと主張するものがあれば、僕は云ふであらう。「別物」にした上で猶且つ、原作に匹敵する芸術的効果を挙げるためには、必ず「原作の味」を誤りなく味ひ尽した上でなければならない。「わからないから、かうして置け」――そして、それが「原作」を傷けるものであつた場合、そのものの罪は正に死に当るであらう。
 くど
前へ 次へ
全13ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岸田 国士 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング