に遅れてゐることを恥としない風がある。
少し脇道に外れたが、現代日本に於て、所謂、新劇と称せられるものが、かくの如き有様であるとすれば、これからの「新劇運動」と称すべきものは、正に、在来の所謂新劇に対してこそ革命の旗を翻すべきである。今日新劇団の発生を注意してゐると、それは何れも、在来の所謂「新劇」から一歩も出ようとしてゐない。在来の新劇が払つた努力以上の努力、探究以上の探究をしてゐない。従来上演せられて来た脚本を、従来通りに、或は従来よりも「少し達者に」演出することを以て能事了れりとしてゐる観がある。たまたま「少し変へて」演出したとすれば、それは単に舞台装置である。扮装である。気がきいたところで、台詞のテンポ乃至は声の調子である。派手に、地味に、明るく、暗く、悲劇的に、喜劇的に……さういふ「変へ方」である。それも悪くはないが、それ以外にもつと大事な、もつと本質的な演出上の改革点がある筈である。それは一つの脚本を如何に演ずるかといふ問題以上に、これからの演劇を如何に完成すべきかといふ問題に触れてゐるのである。そこまで行かなければ、本当の新劇運動とは云へない。
それがためには、先づ第一に脚本の撰定から従来の標準を改めなければならない。ここで具体的に述べることは差控へるが、要するにこの種の運動は、勢ひ芸術的にある傾向を取り易いものであるけれども、主義や流派は、演劇の本質的見地からすれば、さほど問題にしなくてもいい。ただ前に述べた「新しい日本劇」の樹立に好ましい基礎を与へる要素を具備した戯曲ならば、国の内外を問はず、時の新旧を問はず、これを上演目録中に加へるがいい。
但し、その演出は、あくまでも演劇の本質美を発揮すべき演出でなければならない。戯曲がわかつてゐるだけではいけない。戯曲を感じてゐなければ。戯曲に盛られてある生命の韻律的効果を、完全に舞台上に活かし得る自信がなければならない。これがためには、従来の新劇団が行つてゐるやうな稽古の仕方では絶対に駄目である。ある劇団の如きは、その稽古の結果から見れば、努力の程度は十分と思はれても、その方法に於て僕の望む所とは遥かに隔りがあるやうである。これは所謂「新劇運動」を標榜してゐないのであるから、咎める方が無理でもあり、またその方面で、将来どんな新しい演劇が生れて来るかもわからないのであるから、その真価を今ここで即断するこ
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