日われわれが一顧の価値すら払ひ得ないやうなものが実際あるのだから、それと同時に、同じ様式には違ひないが、その芸術的価値に於て、取るに足らぬものも数限りなくあるのであるから、一概に西洋劇から範を取るといふことは無論できないのであるが、これはもう云ふまでもないことで、かういふ反駁は予めお断りしておかねばならない。
さて、かういふわけであるから、日本劇の伝統からわれわれがあるものを求めるとしても、それは歴代の名優によつて完成され、洗煉された美そのものであつて、文学的様式乃至は手法の上で、日本劇からでなければ得られないといふやうなものは先づ無いと見て差支へあるまい。さうなると、もう日本劇と西洋劇とを対立させる必要もなくなるわけである。西洋劇の伝統をそのまま取り入れて、それを新しい日本劇の伝統としても一向差支へはなく、従つて歌舞伎劇には、新日本劇の実父といふ名を呈しておくだけで、養父の西洋劇には万事行末の面倒を見て貰ふことも、別段、不義理な沙汰ではあるまいと思ふ。
それならば、新日本劇とは如何なるものであればいいか。現在の新劇ではいけないのか。どういけないのか。
僕は現在の所謂「新劇」なるものをかう見てゐる。即ち、一つは、歌舞伎劇流の類型的心理乃至生活を近代人の敏感さと繊細さを以て描き出さうとするもの、一つは、近代精神の一面を歌舞伎劇的な冗漫極まる叙述に託さうとするもの。そして、この二つの型は、それぞれ、ある程度まで芸術的に認められるべき作品を生んではゐるが、これを以て、新日本劇の根本的樹立と目することはどうしてもできない。殊に、同時に、この両者に欠けてゐるものは、近代生活の中に含まれる特殊な戯曲的雰囲気の把握である。近代人の鋭敏な感覚に訴へる戯曲美の創造である。
現代の教養ある観衆は、思想の中に常識以上のものを求めてゐる。感動の中に経験以上のものを求めてゐる。作者の「物の観方」と、自分の「物の観方」とを比較することを知つてゐる。これらの演劇は、畢竟、これらの観衆を満足させなければならない。常識といひ経験といひ、既に在るものを指すのである。如何に深遠なる思想も、一人がこれを説けば既に常識である。どんなに激しい感動も、実生活の中から何人も受け得る感動は、すべて経験である。芸術は、この思想、この感動から、一歩抜け出たものでなければならない。演劇のみは、この点で他の姉妹芸術
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