ゑるやうに土を耕してはゐないからである。枯れないまでも花に香りがないだらう。実に汁が少いだらう。これはどうしたらいいか。シェイクスピイヤ、モリエエル、シルレルの耕した土を持つて来るか、または、その土の代りになるやうな肥料を与へるのである。比喩が変になるが、その土といふのは西洋劇の伝統である。肥料といふのは、近代生活の研究である。
 イプセンの思想を論じ、チエホフの手法を研め、マアテルランクの情調を云々するだけが、近代劇の研究だと思つたら大間違ひである。殊に、それだけで西洋劇がわかつたと思つたら大間違ひである。
 日本の近代劇は、どうもその辺から出発してゐるやうに思はれる。シェイクスピイヤとイプセンとが、如何なる点で結びついてゐるか、劇作家としてのシェイクスピイヤは、劇作家としてのイプセンに如何なるものを伝へてゐるか、シェイクスピイヤの戯曲が、戯曲として何故に魅力をもつてゐるか、その魅力が、イプセンの戯曲の魅力と如何なる共通点があるか、それが、戯曲の本質と如何なる関係があるか。ここまで研究の歩を進めれば、凡そ西洋劇の十分な理解が得られるであらう。それから後、シェイクスピイヤが何故に古典劇作家とされ、イプセンが近代劇作家とされるかを考へて見るがいい。われわれが現在自称してゐる「われわれの近代劇」が、如何に基礎の危いものであるかに気がつくであらう。
 そこで一先づ、近代劇といふ名称を離れて考へよう。われわれは兎も角、在来の日本劇から一層飛躍した演劇を作り上げようとしてゐる。然し、われわれはそれほど、在来の日本劇から離れなければならないであらうか。僕は今まで、西洋劇研究の必要を力説し、殆ど在来の日本劇を顧みないかのやうな論じ方をした。そして、西洋劇の伝統と日本劇の伝統とが、相容れない両極端をなしてゐるかの如き意見を述べた。この点をもう一層明かにしておかなければならない。
 西洋劇と日本劇との比較問題は、稿を更めて詳論するつもりではあるが、要するに、日本劇の伝統は、その発達の経路と完成の程度に於て独特のものでこそあれ、その本質に於て、全く西洋劇の伝統中にこれを見出し得ないものではない。ただ西洋に於ては、発達の遅々たる、その結果、今日では芸術的演劇として、その存在を認められない一つの様式となつてゐるにすぎないのである。
 西洋劇といつても色々の様式があり、その様式によつては、今
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