たかといへば、恐らく、総てをなしたといへるであらう。ただ、誰が何をなしたかといふ問題になると、誰も何もしなかつたのである。できなかつたのである。
 余談はさておき、私のいふ「新劇の始末」について、もう少し具体的な話をしてみよう。
 第一に、今すぐ、日本にあるもので、「現代劇」が作れるか? といふと、それは作れないと答へるより外はない。無理に作れば作れないこともあるまいが、名ばかりのもので、いいものは無論できない。理由は、材料がそろはぬ。戯曲は、必ずしもないことはない。非常に優れた、成功疑ひなしといふ創作戯曲はちよつと思ひ当らぬし、そんなものは前に述べた理由で当節出る筈もないが、まあこれならと思はれるものは、過去二十年の間に、十ぐらゐは出てゐるだらう。無論、「新劇」の畑から出たものである。作家のものでは、田中君の「おふくろ」や、真船君の「いたち」など、世が世なら、もつと完全にもつと面白く、従つて、もつと広い範囲で興行価値を示したであらう。阪中君の「馬」小山君の「瀬戸内海」川口君の「二十六番館」森本君の「わが家」などは、何れも芸術的に相当高いレヴェルに達した作品だが、まだまだ「新劇的」すぎ
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